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財布喪失を乗り越え、フランスの絶景ハイキングコースを歩く

フランスに来て、10日が経った。ノルマンディー地方の港湾都市ル・アーブルに連泊することにしたのは、ここから日帰りでエトルタまで足を延ばしたかったからである。モネをはじめ、ブーダン、クールベ、コロー、ドラクロワなど多くの画家たちが絵のモチーフとした「エトルタの断崖」を、何年も前からこの目で見てみたかった。

ブーダンの描いたエトルタの断崖(アンドレ・マルロー美術館にて)

しかし、エトルタは小さな町である。1時間かけてバスで行って、町と海沿いを少し散策して戻ってくるだけでは物足りない。エトルタと併せて、もう一ヶ所くらい、どこかへ行けないだろうか?

色々と周辺情報を調べるうちに気になり始めたのが、エトルタからさらに17kmほど海沿いに進んだところにあるフェカンという港町だった。

ル・アーブルを拠点にエトルタとフェカンを訪ねる

「地球の歩き方」にも載っていないマイナーな町だが、写真を見ると、断崖の上に家々が並ぶ景観がユニークだった。フェカンへはル・アーブルから鉄道で行けて、さらにフェカンからエトルタまではバスが出ている。そしてエトルタからル・アーブルまでもバスで帰ってこれるから、鉄道1回・バス2回を乗り継ぎ、ぐるりと2つの町を巡って楽しめる。良いプランじゃないか。

これが最初のプランAだった。

しかしさらに調べていくうち、何やらおもしろい情報を見つけた。

フェカンとエトルタを結ぶ、絶景のハイキングコースがあるようなのだ。それは「GR21」というルートだった。どうもヨーロッパ各地に、GR(Grande Randonnée)と呼ばれる長距離ハイキングコースが設定されているらしい。GR21は、その「21番目のコース」ということだ。

おまけに通称「崖の道」とも呼ばれるこのGR21は、2020年に「フランスで最も人気のあるGR」に選ばれたという。おもしろそうだ。ぼくは来年1月に、大阪から博多まで約650kmを歩いて旅しようとしているから、良いトレーニングになる。それに、悪天候によりノルマンディー地方の自転車旅を断念してしまった代わりに、何かユニークな経験をしてみたいという気持ちもあった。歩く準備なんてしてこなかったけど、17kmくらいなら行けるだろう。幸い、当日は天気も大丈夫そうだ。

そこで新たに生まれたプランBは、こういうものだった。

<プランB>
ル・アーブル駅 8時30分発の鉄道でフェカンへ行く。
→9時15分にフェカン駅着。
→パンなどを軽く食べて、町の景色を写真に収めてから、GR21のハイキングをスタート。
→景色を楽しみながら4〜5時間歩き、エトルタへ。
→そしてエトルタの観光をして、17時頃のバスでル・アーブルに戻ってくる。

我ながら完璧なプラン。しかし、事はそううまくいかない。まさかの事態が起きてしまうのだった。

*****

朝8時にホテルを出発し、駅前バスターミナルの窓口に立ち寄った。エトルタから戻ってくるときに備えて、バスの時刻表をもらった。

エトルタ〜ル・アーブル間のバスの時刻表

そしてフェカン行きの電車に乗り込むと、運転士さんから声をかけられた。さっき外から鉄道の写真を撮っていたのを見て、ぼくを鉄道オタクだと思ったのか、「運転室に入ってみるかい? 写真を撮らせてあげるよ」と親切に中に入れてくれた。正直そこまで興味はなかったのだが、ここで彼の親切心を台無しにするわけにはいかないので、とびきり嬉しそうな表情をして、ものすごく興味がありそうにたくさんの写真を撮った。

運転席に入れてくれた親切な運転士さん

しかし、それから5分ほど経ち、まもなく8時30分の出発時刻が近づくという頃、今度は渋い表情で彼が運転室から出てきた。何かあったようだ。そしてぼくの近くにいた乗客にフランス語で説明している。もちろん意味はわからないが、その声のトーンと乗客の真剣な表情から、多分、何かしらの理由で電車の出発が遅れるのだろうと察しがついた。

ぼくは「こんなこともあるよな」という気持ちで、動じなかった。しかし、それからしばらくして、帰りのバスの時間を調べようとさっきもらった時刻表をショルダーバッグから取り出そうとしたとき、思わぬことに気がついてしまった。

(あれ、、、財布がない)

どこを探してもなかった。盗られた? 忘れただけ?

え、いずれにせよこれはまずい。もう8時35分。今電車が出発してしまったら、ぼくは現金もクレジットカードもない状態で、フェカンへ向かうことになってしまう。食べ物も買えないし、帰りのバス代も払えない。

電車の出発が遅れたことが、「不幸中の幸い その1」だった(ということは「その2」もある)。とにかく、この状態でフェカンへは行けない。ぼくは次の電車が2時間も後だと知っていたから、「なんてこった」と嘆きながら、急いで電車を降りた。もうハイキングは無理かもしれない。

でも落ち込むより先に、処理すべきことがある。財布を探すのが最重要だが、しかしできればこの切符代の8.4ユーロ(約1360円)を無駄にしたくない。まだ列車は遅延のため出発していないから、もしかしたら今ならまだ、2時間後のフェカン行きの列車の切符に無料で変更してもらえるのではないか、という淡い期待があった。

「みどりの窓口」的なところでスタッフに窮状を訴える。

「今この電車に乗るつもりだったんですが、あろうことか財布をホテルに置いてきてしまったんです(実際はどこにあるのか定かではなかった)。今から取りに戻らないといけないから、この切符を次の列車の切符に変更してもらえませんか?」

「残念だけど、それはあなたの都合だから、切符の変更はできないわ。また新たに買い直す必要があるわね」

「そうですか。。。わかりました。。。」

無念。しかしあとでわかるように、これが意外にも、「不幸中の幸い その2」なのであった。

とにかく、財布を見つけないとまずい。今朝は一度も財布を出していないから、可能性としては部屋に起き忘れてきたか、あるいは昨夜最後に行ったカルフール(スーパー)で、会計時にレジの前に起き忘れたか。前者であってほしい。

ホテルへ戻る道のりは、不安な気持ちでいっぱいだった。そして部屋に着いてテーブルを探すと、、、

あった。。。(不幸中の幸い その3)

パソコンケースの下に隠れていて、出発時にうっかり入れ忘れてしまったようだ。本当に良かった。財布さえあれば、なんとでもなる。

この安堵がぼくの頭を再び活性化させたのか、「まだハイキングを諦めてはいけない」という思考モードに入った。2時間後の鉄道よりも、何か良い手段はないか。

そして、閃いた。

(逆回りだ!)

当初予定していたル・アーブル→フェカン→エトルタ→ル・アーブルの順ではなく、

ル・アーブル→エトルタ→フェカン→ル・アーブルの順で回れないだろうか?

さっき窓口でもらったバスの時刻表を見ると、9時10分発のエトルタ行きのバスが存在した。そしてそれは・・・(時計を見る)・・・今から15分後だった。急げば間に合う! ぼくは慌ててまた駅へと向かい、窓口の女性に話しかけた。

「9時10分発のエトルタ行きのバスに乗りたいです。チケットはここで買えますか?」
「買えるわよ」
「ありがとう。いくらですか?」
「1.8ユーロ」

安い! エトルタまで約30kmもあるのに、300円程度で済むのか? あまりの安さにビックリした。

ル・アーブル発、エトルタ行きの13番線バス

バスに乗り込むと、すぐに出発した。ほっと胸をなでおろす。逆ルートに変わったが、遅れは40分で済んだ。もしもさっき、「みどりの窓口」で2時間後の電車の切符に変更できていたら、「バスでエトルタへ行く」という発想は生まれなかっただろう。そしてその場合、時間的にハイキングは諦めざるを得なかった。ハプニングの中にも、3つの幸運が重なった。

しみじみとバスの車窓風景を眺める

*****

10時過ぎ、バスはエトルタの町に到着。小さいけれど家並みがかわいらしい。朝から何も食べてなかったので、パン屋さんでキッシュ・ロレーヌ、ハムとチーズのクロワッサンサンド、そしてパン・オ・ショコラを購入。

エトルタのパン屋さん「Le Petit Accent」

田舎価格なのか、3つで6.65ユーロと安い。ベンチで食べてから、海岸に出た。

大西洋の荒波、そして左右には断崖絶壁が広がっている。そばのプレートには、モネが描いた絵が紹介されていた。その場所から眺める景色は、まさに絵の風景と同じだった。

エトルタの断崖。「アヴァルの門」と、その裏に重なっているのが「針岩」
モネが描いた絵と実際の景色を比較できるプレート

つまりモネは、1885年のとある日、今ぼくが立っている場所で、絵を描いていたのだ。モネがここにいた。遠い存在のはずであった歴史上の画家が、少しだけ身近な存在として感じられた。

向かう方角とは反対だけど、せっかくなのでその断崖の上にも登ってみた。するとそこからは、さらなる絶景が広がっていた。実際のエトルタは、こんなにすごい場所だったのか。想像を上回る迫力。やっぱり訪れる価値はあった。

奥に見えるマンヌポルト(フランス語で「大きな門」)もモネは描いた
崖の上からエトルタの北側を望む

※上野の森美術館で開催中(2024年1月28日まで)の特別展「モネ 連作の情景」にも、モネの描いたエトルタの絵画が数点展示されている。今度観に行くつもりだ。

そしていよいよフェカンに向けて、17kmのハイキングをスタートした。北側の断崖に登ると、また素晴らしい景色が見渡せた。断崖の上を進む、最高のハイキングコースだ。

振り返ってエトルタの断崖とお別れ
北へまっすぐ進む
少しコースから外れたら断崖から落ちてしまう

ただ、明け方までの大雨の影響で、道が非常にぬかるんでいた。水溜りを避けられない箇所も多く、一足しかないぼくの靴は泥だらけになってしまった。困ったけど、それよりも今を楽しもう。

放牧されている牛たち

途中、牛がいたり、ベヌヴィルやイポールといった小さな町々を通過したり、ドキドキしながら誰もいない山道を進んだりと、変化に富んだコースだった。

遠くにフェカンの町が見えた
途中のイポールの町

アップダウンも激しく結構キツかったけど、15時半過ぎ、なんとかゴールのフェカンに到着した。最後の6kmはランニングした。この道を歩いた日本人は、ほとんどいないはず。久しぶりに旅らしいことができて嬉しかった。

断崖を降り、ついにフェカンの町が見えてきたときの感動も大きかった。独特の景観だ。

フェカンに到着。ユニークな景観
斜めの岩山に、家々が建っている
来た道を振り返ると、ものすごい断崖が

朝は財布を忘れるハプニングもあったけど、無事に終わりそうで良かった。

帰りはフェカン駅から17時33分の電車に乗ろうと思っていた。しかし、同じルートでも乗る電車によって料金が変わる可能性があることを思い出し、念のためサイトで確認することにした。

すると、また思わぬ事態が。

(え、17時33分の電車は「予約できない」って書いてある。なんで?)

おまけに、その次の19時台の鉄道は「運行中止」となっている。何が起きているんだ?

事情はわからないけど、幸い16時41分発の電車はまだ購入可能だった。ル・アーブルでゆっくりする時間はないけれど、これに乗らないと帰れなくなるから、スマホで急いで購入した。最後に罠が仕掛けられていて、危ないところだった。でもこれで大丈夫だ。

駅周辺に着き、まだ電車の出発までは30分あったから、近くの人気カフェ「Le coffee de Clo」に寄ってみた。店内はほぼ満席。きっとおいしいのだろう。

ハイキング達成のご褒美に、フルーツたっぷりの焼き菓子と、ホワイトチョコのクッキー、そしてコーヒーを注文。10分で急いで食べたけど、実においしかった。

「Le coffee de Clo」のスイーツ、本当においしかった

フェカンでの思い出が増え、満足してお店を後にした。駅には、やけにたくさんの大型バスが停まっていた。どうしたんだろう?

ホームに着くと、違和感があった。もうすぐ出発の時間なのに、電車もまだ来ていないし、それどころかホーム上に誰も人がいないのだ。これはさすがにおかしい。

慌てて駅の入り口に戻り、駅員らしき女性に尋ねた。

「すみません、16:41発のル・アーブル行きの電車に乗りたいんですけど」
「このバスに乗りなさい」
「え? 電車は? 来ないんですか?」
「来ないわよ。このバスで途中のBréauté - Beuzeville駅まで行って、そこでル・アーブル行きの電車に乗り換えなさい」

慌ててバスに乗り込む

理由はわからなかったが、とにかく従うしかない。たくさん停まっていた大型バスは、各地への振替輸送のバスだったのだ。

やれやれ、ホテルに着くまで油断できないな。でも幸い、これが今日最後のハプニングだった。

バスはBréauté - Beuzeville駅に着き、15分ほど待って、ル・アーブル行きの電車に乗り換えることができた。そして18時、無事街に戻ってきた。

宿のエレベーターにて、安堵の一枚

本当にいろんなことがあった一日だった。感情の揺れ動きが激しく、疲れた。でも終わってみれば、壮大な景色を眺めた記憶、素晴らしい道を歩いた経験と達成感が残っている。数々のハプニングも、やがて笑い話に変わるだろう。

ぼくは行きの鉄道代8.4ユーロを失った代わりに、この長いストーリーを書くことができた。十分おつりが返ってきたと思っている。

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中村洋太
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