東北一周自転車旅(6)福島県双葉郡広野町〜南相馬市
東北一周自転車旅
第6ステージ
福島県双葉郡広野町〜福島県南相馬市(58km)
昨夜は日記を書いている途中でブライトン対マンチェスター・ユナイテッドの試合が始まったから観てしまい、寝たのは1時半。今朝は6時に起きて、村上春樹さんの規律正しさを思い出して自分を奮い立たせ、日記の続きを書いた。
昨日の夕食で張り切ってごはん4杯食べて苦しくなってしまったので、朝ごはんは控えめに大盛り一杯にとどめた。でもおかずがたくさんあったから結局たくさん食べた。しっかり栄養を取れて嬉しかった。
朝風呂とサウナに入り、部屋に戻って最後の作業。ようやく昨日分の日記を書き終えて、noteも更新した。おかげで出発は11時になってしまった。
広野駅から5km走り、Jヴィレッジに立ち寄った。ここはサッカー日本代表が合宿する場所として有名だったから、どんなところなのか見てみたかった。
何面ものサッカーコート、雨の日でも使える「全天候型練習場」というドーム状の人工芝フィールド、そしてスタジアムもあった。震災時には国に移管され、原発事故対応の拠点になっていたそうだ。すぐ近くには2019年に開業した常磐線の新駅「Jヴィレッジ駅」もある。
しばらく6号線で北上する。しかし今日も暑い。サウナに入りながら自転車を漕いでるみたいだ。
12時過ぎに富岡町に到着。今いる福島県双葉郡は、震災の被害がとくに大きかった地域のひとつなので、震災関連の資料館や伝承館が点在している。
富岡町には「東京電力廃炉資料館」があり、ぜひ訪ねてみたかったが、今日は休館日だった。また来たときに見学したい。
代わりに、「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に入った。「富岡町の成り立ちと複合災害がもたらした地域の変化の伝承」を目的とした施設で、入館は無料。展示品を通して震災の悲惨さがわかるほか、「富岡町の人々がどんな経験をすることになったか」を伝える映像がとくにわかりやすかった。
地震と津波も大変な惨状だったが、それだけで済めばまだマシだった。しかし福島第一原発の事故により全町避難となり、富岡町から8000人が西の川内村へ避難した。避難時は、「2、3日もすればまた町に戻れるだろう」と考えていた人も多かったそう。だけど原発で水素爆発が起き、そのニュース映像に避難所にはどんよりとした空気が流れた。爆発の影響でさらに避難区域が広がり、川内村にもいられなくなったため、郡山市の「ビッグパレットふくしま」に避難することになった。
当たり前に暮らしていた自分の町に、戻ることすらできない。そのため、家にペットを置いてきてしまったことや常備薬を置いてきてしまったことを後悔したり、苛立ったりする人々が続出したという。
結局、避難指示区域が解除されたのは2017年になってから。震災から6年以上が経っていた。飼われていた動物たちはどうなってしまったのだろう。
また国道6号線をしばらく走っていくと、少し離れてはいるが、右手に福島第一原発が見えた。6号線から東のエリアはまだ規制がかかっていて、関係者しか入れないようになっている。
双葉町を走っていると、大きな新しい施設があり、車がたくさん止まっていた。「東日本大震災・原子力災害伝承館」だった。せっかくなので行ってみることにした。入場料は600円。こちらも様々な資料があり勉強になったが、「そうだったよなあ」と当時のニュースを思い出すような感覚で、先ほど訪ねた「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に比べると、「そんなことがあったのか・・・」という驚きはあまりなかった。急ぎ足で見てしまったのもあるかもしれない。毎日数回、地元の語り部による40分間の講話を行なっているそうなので、それを聴けたらまた違ったと思う。ここを訪ねたらぜひ聴いてみてほしい。
震災のことは、全般的なことを学ぼうとすると既にどこかで聞いた話が多くなりがちなのだけど、たとえば「富岡町の人々は震災が起きてどうなったか」という個別具体的な話はまだまだ知らないことがほとんどななため、「もし自分だったら」と置き換えることで、より震災の恐ろしさや被災された方々の大変さがリアルに迫ってくる気がした。うちの実家には猫が3匹いるから、もしものとき、猫はどうなってしまうのだろうかと考えると恐ろしい。母は以前、「何かあったら絶対に猫を連れて行く」と言っていた。何もないことを願うが。
最後に訪ねたのは、浪江町にある請戸小学校。浪江町の海側は丸ごと流され、今は広い草原になってしまっているが、この小学校だけがその草原の中にポツンと震災遺構として残されている。 入場料は300円。
ぼくがよく通う地元のスターバックスに、ツーリング好きの大学生の男性店員さんがいる。彼が少し前にこの請戸小学校を訪ねたそうで、ぼくはその話を聞いて来てみたいと思ったのだ。
津波の高さは、小学校の1階の上の部分にまで到達したそう。近くにいたグループの人が、それを見て「2階にいれば助かったなあ」と言ったが、それは結果論であって、どの高さまで来るかなんて津波が来るまでは誰にもわからない。焦りもあるし、どこに避難すればいいかの判断は本当に難しいと思う。また、職員の方に、「防波堤をもっと高くしていれば良かったのにねえ」と言っている人もいたが、それも同じようなものだと思った。あれほどの大津波が起きるまでは、まさかあんなところまで波が来るとは想像もできないだろう。後からでは、なんとでも言えてしまう。
3ヶ所を見学したためお昼を食べる時間がなく、小学校を出てから昨日奥村サヤさんにいただいたクッキーを食べた。もう16時。あとはゴールの南相馬まで20kmほどなので、このまま行ってしまおう。
小学校は海からわずか300メートルに経っていたから、せっかくなので海岸の方へも寄ってみた。まさにここに大きな津波がきたんだなあ、と思った。向こうには福島第一原発が見えた。
「原子力豊かな社会とまちづくり」
さっき伝承館で見かけた、昔使われていた双葉町の標語を思い出した。いろいろと考えさせられる。原発はエネルギーだけでなく、町の大きな雇用も生み出していた。あの原発事故がもし起きなかったら、現在の原発に対する見方はどうなっていただろうか。世論は違うものになっていたのではないかと感じる。
仙台へと続く国道6号線の東側は、道路が新しく、景色はガランとしている。車はほとんど走っておらず、自転車は快調に進む。それにしても、浪江町のだだっ広い草原を見渡していると、かつてここに町があったなんて信じられないくらいだ。写真だけ見せられて「これはアフリカのサバンナです」と言われたら信じてしまうかもしれない。とはいえ今は水面下でいろんな動きがあるみたいだから、これからどんな町に生まれ変わるか、楽しみにしていたい。
草原の一部に、お墓の並ぶ一帯があった。もちろん震災後に建てられたもの。「どうしてもこの地に眠りたかった」という強い意志を感じた。
17時過ぎ、無事南相馬に到着。今夜はこの街に住む佐藤光輝さんのお宅に泊めていただけることになった。初対面の方だ。
ぼくと同い年の光輝さんは現在、「インテリア原町装美」というインテリア会社で専務を務めている。彼は6年ほど前にブログをやっていた時期があり、何かの拍子にぼくのブログを知って、参考にしてくださったという。それだけでなく、「中村さんのようになりたい」と憧れを抱いてくださったのだそうだ。
とはいえ、これまで彼と交流があったわけでもない。こうなったきっかけは、先日ぼくが出演したJ-WAVEのラジオだった。
佐藤さんが何も知らずにたまたま家でラジオを聴いていたところ、ぼくが登場したから驚いたという。そしてネットでぼくの近況をチェックすると、「東北一周自転車旅をする」と書いてある。おまけに自分が住む南相馬に泊まる予定だとも書かれている。それを見て、「南相馬ではうちに泊まってください!」とご連絡をくださったのだ。
佐藤さんは大学時代に関東に出てきて、ぼくの母校である追浜高校のすぐ近くにある関東学院大学に通われていたそう。おまけに追浜にも住んでいたそうで、初対面ながら地元の話ができて一気に親近感が湧いた。
海外旅行が好きで、最近はサーフィンに夢中らしい。チャレンジ精神のある方なので、色々とお話できておもしろかった。「以前から中村さんのファンでした」と、2016年のインスタの投稿を見せてくださった。そこには、ぼくのツイートやブログの言葉を引用してくださっていた。心に響いてくれていたそうだ。本当に嬉しい。奥さんの絵理さんも素敵な方だった。本をたくさん読まれる方なので、好きな本の話で盛り上がった。
夕食にはお刺身を出してくださり(しかも大トロまで!)、とてもおいしかった。これまで縁もゆかりもなかった南相馬で、思わぬ素敵な滞在となった。佐藤さんご夫妻、ありがとうございました!
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