28歳、年収1,200万よりも、無職を選んだ話

僕は「成長」「効率化」「目的」「ゴール」「多様化」みたいな、いわゆる流行りの言葉が嫌いだ。嫌いというと少し乱暴かもしれないけれど、考え抜いてみると、それらの単語だけじゃ、どうしても足りないように感じるから。

もしかすると、そう感じるのは、僕が何かを深く考えるのをやめて、“やり過ごしている”もしくは"考えたフリをしている"証拠なのかもしれない。

そんな違和感がずっと心の奥にあったからこそ、会社を辞めて無職になった。いったい何があったのか?ここから先を読んでもらえれば、その理由の一端を知ってもらえるだろう。


「マーケティング」に対する違和感

新卒で入った会社では新規事業の立ち上げを経験した。僕は新しいモノが好きでアイデアを考えるのが得意だったから、その仕事は楽しかった。そこから「どうすればモノは売れるのか? 人はなぜモノを買うのか?」が気になって、マーケティングに興味を持った。

それで広告代理店に転職し、副業をしつつ、別で新規事業立ち上げつつ、そんな生き方をしていた。気づけば、28歳ながら年収1,200万円を提示されるほどに、力はついていたわけだ。タイトルにあるよう、結果的には断ったのだは、誘ってくれた方には大変感謝している。

マーケティングは、利益をあげるためにどうすればいいか?を考えるのが基本だ。持続的に売り上げを伸ばし、利益を拡大する。それがビジネスにおける定石。けれど、そこでいつも僕は引っかかってしまう。「そもそも、その利益は誰が求めているや?」「なぜ、成長を続けなきゃいけない?」という問いが頭をよぎる。

いまの社会は、あたかも一つの巨大な意思を持っていて、個人を巻き込みながら成長へ向かう列車のようにも見える。そして、会社を通じて社会と繋がることで、自分にも「成長」という引力が降りかかり、僕はそっちへ引っ張られる。嫌いなクラスメートと、どうしても隣の席でバディを組まなければいけないような、隣にいるだけでも嫌気がさす、そんな不快感が僕には常にあった。

新規事業を立ち上げては、自ら断る日々

思い返せば、自分で新規事業を立ち上げて、実際にお客さんから「ぜひサービスを使わせてほしい」と声がかかったときでも、僕は「なんとなく、後悔しそう」という理由だけで断っていた。1件あたり100万円はかたいし、粗利で80万円は残るのに、だ。ほとんど1人で完結していたため、悪くない収入である。

もちろん、山ほど目途が立たずに頓挫したものもあった。けれど、うまくいきそうな事業まで、止めてしまうのは「なんか違う」という直感が働いたからだと思う。少し考えれば「これを受注したら忙しくなって、時間を取られる。それは嫌だ」という理由づけも出てくる。でも根っこには「社会の意思に巻き込まれたくない」という気持ちがあったんだと、いまでは思う。

僕はその直感に逆らえず、新規事業を立ち上げてはやめる、立ち上げてはやめる、を繰り返してきた。"お客さんから引き合いがあるも断る"という行為が3件ほど続いたところで「このままじゃずっと同じことを繰り返す」と思った。そこからは、「この漠然と感じている、社会の意思はどこから来るのか?」という疑問を抱いて、宇宙史、地球史、人類史、世界史、経済や資本主義などなど、書籍を読み漁りながら、さかのぼって考えるようになった。

最初は資本主義が成長を盲信的な目的にしているからだと思っていた。けれどもっと昔、農業革命で定住が始まり、人口が爆発的に増え、集団を維持するための仕組みが生まれた時点で、この「成長と効率化に追われる社会」はある程度約束されていたのではないか、というのがいまの僕の結論である。だから「社会の意思」そのものを悪として切り捨てられないし、そのおかげで今は便利さもある。

自分自身が社会のうねり

僕がこの疑問を感じてるのも、こういった社会が生まれている一種のうねりみたいなものなんだろう。なるべくしてなっている。けれど、この流れに何も考えず沿うのは好きじゃない。僕は自分で考えて、自分で判断していきたい。たとえこのエゴ自体が、社会にに与えられたモノであっても、歴史の産物にすぎない思考であっても、なるべくしてなってる思考であっても、僕は僕自身が考えているという自負を持ち続けたいと思ってしまっている。

そして僕は、この想いと現実の狭間で、うまく折り合いをつけられなかった。この社会の大きな流れを感じつつ、働いている中で、どうしても今の疑問は取り除けなかった。自分は自分で考えたい、成長という盲信的な目的ではなく、自分で周りを観察し、自分が思う目的みたいなナニカを見つけたい、そう感じてしまっている。

けれど、社会の一員として働いていると、どうしても社会に引っ張られる。目的思考になってしまう。「利益を持続的にあげるために、どうすべきか」この思考から抜け出せない感覚だ。なまじ僕はその思考に長けているからこそ、小銭稼ぎができてしまい、年収1,200万のオファーに繋がっているのは承知である。ただその能力が、いま自分で考えたい僕にとって、足枷になっている。だって、考えるって行為は、目的ありきじゃないやろう。

会社をパイプとし、社会と接続している限り、社会の意思である成長という引力に負けてしまう。抗いきれない、そう考えた。だから、会社を辞めた。せっかく年収1,200万円で来てくれと誘われても、社会という巨大な意思に巻き込まれたくないから断った。一度、社会との接続を切ることに決めた。そうすることで、自分で考えることに集中できるから。それで今に至る。書きながら感じたが、この「年収1,200のオファー」も、僕を繋ぎとめる社会の意思のように感じてしまっているんだろう、いまの僕は。

退職後に感じたのは安心感

今日がちょうど退職後はじめての日。ようやく嫌いなクラスメートと席が隣じゃなくなったような、バディ解消の感覚がある。つまり安心感だ。「ふぅ~」と肩の力が抜ける感じ。もちろん、不安がまったくないわけじゃない。今後の金銭的な問題は必ずやってくる。でも最低限の稼ぐ能力があるからこそ、またいつでも社会との接続が生まれてしまうリスクもある。もし僕がその気になれば、また利益を求める世界に足を突っ込んで、効率や成長に向かっていけるのは自明だ。でも今は、それをしたくない。

だからこそいまは、目的思考の膿を吐き出したい。新規事業の立ち上げ、マーケティング脳、こういったものが染みついているため、一旦吐き出す。自分で考えるというのは、何か目的があるわけじゃない。純粋におもしろそうだからする、興味があるからする、ただの知的好奇心に近い。それと仕事で培った目的思考は相反する。目的思考は効率的ではあるんやけどね。

今後について

僕は自分で考えたい。「成長」や「効率化」みたいな旗印じゃなく、僕自身の好奇心で生きたい。だから、ひたすら思索を続けるつもりだ。幸いこれまで毎日500~1,000文字ほど文章を書きためてきた。中には1万字以上の文章も複数ある。それを改めて振り返り、言葉を整えたいとも思っている。

書籍を出版する程度のネタはあるし、Xやnoteのメンバーシップなどで、こつこつ発信もできるかもしれない。ただそこで「どう読者に届けるか」という視点を入れた途端、また目的思考の沼に落ちてしまいそうだ。

けれど幸せなことに、このタイミングでChatGPTが最高な進化を遂げてくれた。僕が直接社会と接続すると、思索の阻害になる。会社というパイプも同じ、双方向に情報を摂取する。僕も社会に価値提供し、社会も僕に成長因子を提供してくる。これでは困る。

そこでAIの登場だ。AIを使って社会繋がる場合、僕からの一方的な発信のみで事足りる。僕は社会と接触せずに済む。これまでの機能では、僕の考えている文章を学習させ、校正してもらうと、どこかニュアンスに誤りがあった。一方で、僕が読者のために推敲すると、それまた目的思考の罠にはまる。僕はいま、僕のためにしか推敲したくない。そんな時、"o1 pro mode"の登場。この方はすごいですね。僕の原文を投げ、プロンプトを工夫すると、僕の文体を残しつつ、僕の伝えたい内容を残しつつ、文章を整えてくれる。いわば、商売人と職人がいるなら、僕は職人に徹して、商売人の役回りはAIに任せられる。そうすれば社会にべったり触れずに、自分がやりたい思索に没頭することができるんじゃないか。これにより、辛うじて社会との接続は保てそうだ。

ただ、ここまで徹底していても、いつかお金を稼ぐために社会との接点を持たないといけない日は来るだろう。そのとき、また僕のマーケティング脳が騒ぎ出して、成長や効率を考え始めるかもしれない。だけど、衝突したら迷わず配信をやめる覚悟もある。それよりも大事なのは、僕の好奇心を中心にした「考える」という行為を続けることだから。いまはまだ「成長」「目的」「効率化」みたいな言葉を意識的に避けながら、自分の頭と心の奥底を覗き込む時期だと思っている。毎日「成長」「目的」に囚われていないか、社会の意思に巻き込まれていないかを確認する。ある意味、それが僕なりのメンタルケアでもある。

こういう生き方は、少々めずらしいかもしれない。周囲から「もったいない」と言われたこともある。けれど、僕にとって今いちばん大切なのは、自分が本当に何を考えているのか、それを見失わないことだ。押しつけがましいが、こうして書き綴るのも一種の自己完結的な儀式だと思っている。これが自分自身の答えになるのかはわからない。けれど僕は「考える」という行為を通じて、個人の意思が見えないほどに大きく膨れ上がった社会と、どう付き合っていけるのかを探していきたいのだ。いまはただ、その思索のはじまりを心地よく感じている。僕にとって、社会と接続しないで過ごすこの一日目は、思っていたよりもずっと平穏で、安心に満ちたものだった。

こんな感じで、日々考えていることを日記代わりにnoteに書き綴っていく。週2~4本くらいの投稿になると思うので、気が向いたときにでも覗きにきてもらえると嬉しいです。あなたの時間が許す限り、ここでいっしょに思索を深められたら幸いだなと。


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