自己紹介
みなさんこんにちは、
TOKYO STYLIST SERVICEの吉﨑です!
初稿では事業の紹介をさせて頂きましたが、まだ自分の紹介をしていなかったので、自己紹介をさせて頂ければと思います。
吉﨑洋介
1985年8月28日生まれ
福岡県出身 A型
好きな食べ物:焼肉と寿司
趣味:ショッピングと旅行と妄想
私は福岡県の若宮町(現在は合併し宮若市)という田んぼとコンビニとホームセンターくらいしかなく、街灯も少ないので夜は真っ暗といったド田舎に生まれ育ちました。
実家暮らしで、家には父方の祖父、祖母、父、母、兄、妹、そして次男の私と7人家族でした。
田舎者なので、もちろんファッションには疎く冬でも素足に靴を履いたり、よく分からないジャージにスウェットをタックインしたり、髪型はスポーツ刈りか何とかドライヤーで作った中分けしか知らないような幼少期を過ごしていました。
しかし、小学校の高学年頃からやはり異性を意識しだした事で、モテる同級生の男の子を意識しながら俺もオシャレになって意中の子に好かれたい!と強く思うようになりました。
それまでは兄の服をお下がりで着ていたり、親が買ってきた服を着ていたのですが、自分で選びたい!というところからがファッション業界への全ての始まりだった気がします。
とは言っても、当時はイオンやユニクロでなんとなく親にこれが良いとか言って買ってもらったりしていたくらいですが。
中学生になってからは、雑誌を見るようになってまだまだ中学生の私には似合わないようなきれい目な服に手を出したりしている側、当時ヤンキーがモテていたド田舎だったのでダボダボの服着たりとファッションの芯がブレブレで雑食に服を着ていたのを覚えています。
そして、自分の人生が変わったのは高校生からでした。
少し町から離れた進学校だったのですが、当時の私からすれば都会に感じた高校はおしゃれな人が多かったのと、服が好きな人が多かったのです。
ダボダボなヤンキーみたいな服を着なくても、好きな事を好きなだけ話したり表現できる場所があったことに感激しました。
友人にも恵まれた私は、いつも雑誌を広げて服の話をしたり、休日は友人のバイクに乗って買物に出かけては男同士でプリクラを撮ったりして勉強も最低限しかせずに毎日オシャレを楽しむ事ばかり考えていました。
そんな高校生活でも、進路を決めるときがやってきました。
もちろん両親は大学を進めていましたが、次男で好きな事にしか没頭できなかった私は、自分の事を自分が一番理解していると変に自信を持って、両親に二度ファッションの専門学校に行かせて欲しいと家族会議でお願いしたのをとても覚えています。
親の反対や不安を押し切って、何とか好きを仕事にする人生のスタートがそこから始まっていったのです。
私が通った専門学校は、福岡市内にある香蘭ファッションデザイン専門学校という老舗の専門校で、ファッションビジネス科に入学。
服が好きで集まった学校なだけあって、高校よりもさらにオシャレな人が多く、負けてたまるかととにかくファッションの事を考えてばかりで、服を着る事を楽しみながら刺激的な日々を送っていました。
授業はやはり苦手だったので、黒板に書いて勉強する科目はいつも点数ギリギリで通過していたものの、外部講師が不定期に行う経営の授業や、VMDと言って商品を陳列したり魅力的に見せるディスプレイなどの実践科目に関しては異才を発揮し最高評価を得たりしていたのを今でも誇らしく思います 笑
そんな刺激的であっという間の専門学校を卒業後は、株式会社アゴストというヨーロッパの日本では流行り過ぎていないコアなブランドを発信する高感度なセレクトショップに入社しました。
店舗は、福岡で1番オシャレな路面店が建ち並ぶ天神大名という場所の真ん中にあり、3階建てのビルで1FがWowen's、2Fがmen's、3Fは休憩室とストックといった割と大きな路面店でした。
新卒ばかりでリニューアルオープンを果たしたその路面店では、全員ローテーションで東京の本社へ研修に行ったのですが、そのタイミングで私はまさかの宣告を受けました。
当時、8人の新卒で働いていたのですが、私はわずが3ヶ月でその路面店の店長として店舗を任される事になったのです。
嬉しいと同時に不安もありましたが、当時はファッション雑誌に載りまくったりDJとして活動しながらブランドの宣伝や自分を売り込む事に必死でした。
しかし、手探りに努力をしたつもりでも、売上は下がっていく一方で止む無く店舗はクローズになる事が決定し、私は株式会社シマムラトーキョーというアパレル会社へ転職する事になりました。
株式会社シマムラトーキョーといっても、あのシマムラファッションセンターではありません 笑
n44というヨーロッパブランドを中心としたセレクトショップであり、2000年ごろに日本でミリタリーブームの火付け役として一世風靡したセレクトショップでもあったのです。
アルバイトからのスタートだったのですが、前の会社でわずか3ヶ月で店長を任された私としては、身近に店長がいる中で基礎から教えてもらいながら働くことはとても有意義でした。
そこで2年程働いたあるタイミングで、大阪へ異動の話しがあり出世したかった私は親に相談してすぐに大阪へ行く事を決断しました。
大阪で、さらに2年程社員として勤務した後に店長へ昇格してさらに2年。
第二の人生の転機がやってきました。
なんと、大手アパレル企業である株式会社ナノユニバースから引き抜きのオファーがあったのです。
環境を変える事に抵抗はありましたが、キャリアアップするには受けない理由は無い条件だったので、2013年の4月に、すぐに転職を決意しナノユニバースに入社しました。
引き抜きでの入社だったおかげで、1年だけの試用期間を過ごした後に、すぐに新店舗の店舗責任者へと昇格し大阪は難波と阿倍野、兵庫は元町と神戸を経験。
縁あって3年目には東京渋谷本社のプレス部署へ異動する事ができました。
プレスの部署とは言っても、一般的な広報宣伝担当といったものでは無く、イベント企画運営という新事業での配属でした。
主な内容としては、新店舗やリニューアル店舗のイベント企画と運営管理、他社とのタイアップ、TV媒体のスタイリングやオペレーション管理、飲食事業の統括、自社媒体を使った広告戦略や営業など、店舗とはまた違ったフィールドで幅広い分野を短期間で経験する事ができました。
当時はあまりのプレッシャーによくトイレで嗚咽してました 笑
その後は会社の組織変更などもあって、再度店舗責任者として千葉は船橋、東京は有楽町・北千住・八王子など数店舗を経験しました。
福岡→大阪→兵庫→千葉→東京など地域によって客層や売れる物も違い、地域によってこんなに特色が違うんだなと日本という一つの国の見え方が広く見えるようになりました。
そうやって、この業界で15年もやってると消費者とファッションの関係性だったり時代の流れというものを冷静に感じられるようになりました。
それくらいの時期から、自分が本当にお客様に対してやるべき事は物を売る事では無いと強く思うようになったり、いまのファッション業界の問題点についても色々考え始めるようになって、頭の中で少しずつ起業というリアルなイメージを持ち始めたのです。
そして、2020年4月15日のナノユニバース退職後は、株式会社インコントロ代表取締役社長の赤峰幸生氏が運営するオンラインサロン「めだか小学校」の生徒として、クラシックや服のルーツなど赤峰流儀を学んでおり、並行してTOKYO STYLIST SERVICEをスタートさせる事を決意し、この春本格的に活動を開始する事となりました。
公式HP↓
株式会社インコントロ 赤峰幸生
赤峰先生は、洋服は西洋の歴史と文化であるが、私達は日本人として日本の伝統や文化を誇りに思い和魂洋装を軸にファッションを楽しむこと。
国は違えど良い物は良いと継承し、良い物を長く大切に使っていく事がサステナビリティに結びつくという考えに、私も深く共感をしています。
そういった、私を取り巻くさまざま環境が今の私の考えを創り出しTOKYO STYLIST SERVICEを始める原点だと思っています。
かなり長々と話してしまいましたが、自己紹介とか経歴みたいなのはざっとこんな感じです 笑
最後に
初稿にも書いたように、
お客様の生活が豊かになり、地球も人も豊かになる。
これがTOKYO STYLIST SERVICEの未来の目標です。
2020年4月16日よりサービススタートとなります!
良ければ公式ホームページもご覧下さい↓
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