"みんなちがって、みんないい"の哲学
creepy nutsに同タイトルの曲があるのでこの記事を読んだ後にでも是非聴いてほしい。きっとリリックの聴こえ方が変わってくる。
このタイトルだけで言いたい事はほとんどの人が理解できるはずだが、これを実践できている人はそれほど多くない印象がある。私も時に出来ない事はあるし、それで失敗した事もある。しかし失敗によって愛や情熱が人を歪める場合がある事を確信した。
自傷行為
具体的に物事に注ぐ人の愛情や情熱はどう歪むのか。簡潔に言えば押し付けがましくなる。
自分の好きを相手にぶつけるのは悪い事ではないし好きな事を語る人は魅力的だ。むしろ私はそういった話を聞くのが大好き。しかし自分の好きを相手にぶつけ同意を求めるようになると歪み始める場合がある。相手もそれを同じように好きならば問題はないが熱量や好きの形に差があると上辺だけの同意は出来てもコアな部分では差異があるからだ。
これの最たる事例がいわゆるニワカ排除
ニワカ排除が何故いけないのか。わかる人も多いだろうが改めて説明するとベテランがビギナー狩りのような行為をする事で流入人口<離脱人口となり衰退の原因となるからだ。しかしニワカ排除する方にも愛情と情熱は確かにある。歪んではいるけれど。愛ゆえに歪んでしまい自分が好きな物の足を引っ張ってしまう皮肉な話なのである。
仮説
具体的な話をしよう。例えば私は音楽が好きだ。この"音楽が好き"を細分化すると演奏が好き、聴くのが好き、ライブが好き、ROCKが好き、HIPHOPが好き、テクノが好き、クラブが好き、バンドやってる、DJしてる、DTMやってる、、、同じ音楽好きだけでも無限に好きの形がある。同時に音楽が好きだけど音楽なら何でもいい訳ではない人が大半のはずだ。愛が故にそれぞれの拘りを持っている。私は比較的音楽の趣味が広い方ではあるが好きのメインはROCKである。それも速くて煩いやつ。そのくせメタルはちょっと苦手。
私の例を見ての通り人の好きの形は複雑で同じ"音楽好き"の人間でさえ、その形が完全一致する事はないに等しい。
ここでタイトルの話に戻ろう。自分と同じ好きの形を相手に求めるときに歪む人と、そうでない人の差は何か。ここまで話してやっとタイトルに説明がつく。
みんなちがって、みんないいの精神を持っているかどうか。
好きの形は千差万別、この精神を持ち合わせていないと自分と違う形が認められなくて自分と同じ形、似た形こそが正義でそれ以外はニワカ、クソのような思考に至る場合がある。自身の過去の失敗とSNSなどで見かける発言に、これを当てはめたらしっくり来る事に気付いた。
蛇足
話の流れが私の経験にも通ずる事に気付いたので急遽だが私自身の話を。以前アニソンのDJをした時にアニメへの愛が足りないような旨の事を言われたことがあった。
言わんとする事は理解出来るし相手方が間違ってるとも思わなかった。確かにそこへの愛は他のオタクと比べたら私は浅いように感じる。
一つ勘違いして欲しくないのはそこに愛がない訳ではなく愛の方向性が違うのだ。アニメへ傾ける愛は他のオタクより浅くとも私がアニメ好きである事には違いない。反面、音楽への愛はアニメへの愛を自分の中で遥かに上回っておりアニソンのシーンにおいては音楽への拘り、愛情がオタクの中では突出している自負がある。もちろん愛の大きさなど比べられないので何気ない事から感じ取る体感としての話でしかないが。
パフォーマンスを経てDJを始め、その過程でアニソンのシーンにおいては私は先に話した"愛の形"が違う人である自覚はあった。アニソン現場では先にコンテンツに触れて、そこから音楽に触れる方が一般的だが私はバンドやアーティストきっかけで先に音楽に触れてからコンテンツに触れる事の方が多い。触れた上で音楽は好きだけど違うなと感じてしまうコンテンツも多いので結果的に"音楽だけ"の状態が生まれてお叱りを受ける事があったわけだ。
基本的に似た者同士でコミュニティが形成されるのは常でコミュニティ内では、それ前提で話が進むのだから私のような者と摩擦が生じるのはある程度仕方ない。
相手方も他のコミュニティであれば同類ではないのが前提なので同じ内容を話すにも物言いが変わる事だろう。どちらが悪いとか言う話ではないが強いて言うなら異質さを感じながらも、その場にいる紛らわしい私が悪かった。けどそれはそこにいちゃダメな理由にはならない。
パフォーマー時代お世話になってきた名古屋のオーガナイザー陣は寛容な心で私のパフォーマンスを面白がって受け入れてくれる方が多く5年ほどパフォーマンスの依頼が途切れる事はなかった。そうして数をこなすうちに場や人を好きになって自分も此処にいていいのかなと思えるようになりパフォーマーからDJとなった今も他の界隈で活動する傍、アニソンのシーンにもお世話になっている。そんな私の過去から現在にかけての話。
みんなちがって、みんないいだけではどうにもならなかった話
私は今とあるイベントの運営に関わり公募に参加してくれたDJさん達のmixを全て聴いている。
まだ当落の結果は出していないが明日で締め切りなので近いうちに当落を発表する事になるだろう。
そこでここまでの話を思い返して欲しい。
当落は出すけど落ちた人も含めて、みんなちがってみんないいのです。ただそれだけではどうにもならなかった。
イベントのイメージに合わなかった、求める技術レベルに達していなかったり何かしら落ちる理由はあるがイメージに合わなかったのならば他のところなら合うかもしれないし技術レベルが求める水準に達していないのなら今後、研究と練習を重ねる事でそこに到達する可能性がある。
スポーツに例えるならば公募は共に戦うチームメイトをスカウトする行為です。チームを強くしたいので一定以上の能力は求めます。能力とは別にチームの特色に合うかどうかの判断もします。
なので落ちたから言ってダメな訳ではありません。あるとしてもそれは個人の好みと相性、スキルだけです。好きではないからダメという話でもありませんし私はあなたの好きを尊重します。しかし私とは合いませんでした。それで人間性が否定される訳でも何でもありません。ただ求める物とは違っていた。ただそれだけの事で、みんなちがってみんないい。その本質は何も変わりません。どうか気に病まないで下さい。
以上、公募を審査する側に回ったのがキッカケで改めて感じた
みんなちがって、みんないい
の精神の話でした。なおこの話は私の脳内を紐解きながら文字に起こした物であり、人それぞれ差異があります。
もう皆さんおわかりですね。その考え方の差異も"みんなちがって、みんないい"です。
ありがとうございました。
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