自己紹介
皆さんこんにちは!
ノート見に来てくださってありがとうございます。
2020年4月から徳洲会体操クラブに就職した中谷至希です。
今回は僕のことを知らない方もたくさんいると思うので中谷至希はどういう人なのかを過去の経歴と経験とともに皆さんに知ってもらいたいなと思い、noteを書きました。
どうやって徳洲会にきたのかという壮絶ストーリーはこちらのnoteからご覧ください。
https://note.com/yossynote001/n/n3007253072d5?magazine_key=mb8764199096d
プロフィール、体操の始まり
僕は大阪府豊中市出身で小学2年生から兄や親の影響で尼崎ジュニア体操クラブというところで体操を始めました。初めは体操に触れる程度の遊びクラスの「育成コース」という班でトランポリンばっかりやっていたのを覚えています笑
しかし、「試合に出たい」「もっと上手くなりたい」という気持ちが強くなり、小学6年生から試合に出たり、本格的に体操を始める「選手コース」に入れてもらえました。
その時に僕ができたことといえば、床はロンダードバク転宙返り、鉄棒はギリギリ車輪、跳馬は転回で手をついた後背中が当たるんじゃないかというほどつき手がないほぼ倒立ブリッチ気味な転回。(実際に背中をぶつけて、その時にグラグラしていた子供の歯が取れたことがあります笑)吊り輪や平行棒なんかできるわけもなく、円馬は旋回の方向を変えられて0周からやり直しでした。ここが僕の体操人生のスタートでした。
バカにされ続けたジュニア時代
選手コースには同級生が3人いました。その同級生たちは僕よりもずっと早く体操を始めていて、もちろん6種目やっており、自分の同級生とは思えないくらい上手でした。
この時はただ「すごいなー」と思っていただけでしたが、出る試合全て僕が最下位で次第に勝ちたいという気持ちが強くなっていったのを覚えています。さらに自分には5つ離れた出来のいい兄がおり、いつも周りからは同級生や兄と比較され、「お兄ちゃんはすごいのによしきはなんででけへんねんやろな」とかバカにされることもしばしばあり、絶対に上手くなる。負けたくないという気持ちも芽生えるようになりました。
そんな僕も中学3年生になる頃には同級生と同じくらいのレベルまでにはなりましたが、西日本ジュニアや近畿ジュニアなどに出れるようになってからは「全国にはこんなにうまいやつらがいるのか」と驚きの連続でした。全国大会にも出れず、結局悔しい気持ちのままジュニア時代を終えました。
修行の3年間
高校は香川県の藤井高等学校というところに進学しました。親元を離れ寮に入り、勉強と体操しかない環境に身を置くことになりましたが、不安などはなく、ただただ体操が上手くなりたい、地元で俺をバカにしてきた奴らを見返してやりたい。その一心で地元を離れました。藤井高校の体操部はとにかく規則が厳しかったです笑
・3年間坊主
・門限は6時
・テレビ、ゲームの持ち込みは禁止
・カラオケ、ゲームセンターなど禁止
・スマホ、LINE禁止などなどetc…
このnoteをみてくださる皆さんだけに正直に言います
地獄のような苦しい3年間でした笑
思い返せば、幸せなことよりも辛いことの方が圧倒的に多い3年間でしたが、今でも藤井を選んで良かったと思います。高校の時のエピソードの話をすると長くなりすぎで話が脱線しすぎてしまうのでまた違う機会にまとめるとします。
高校の先生からはたくさんのことを教えていただきました。時には(時にはというか結構)理不尽なことも言われましたが、今ではあれに耐えれたのだから怖いものはないと思っています。3年間で学んだことといえば、体操のテクニックもたくさん教えてもらいましたが、それ以上に人としてどうあるべきかということ叩き込まれました。高校在学中にはわからなかったことですが、大学の後半くらいから当時の自分の体操ノートを見直した時の恩師の言葉が今の自分にささることが多くなりました。
素直でいなさい。誠実でいなさい。頑張りなさい。
競技の強さではなく、今の自分から成長しようとするその姿勢が大切なのだということを、常々耳が痛くなるほど言われてきました。
そんな僕もインターハイという全国大会に出場できるようになりました。しかし、初めて出場した高校2年生のインターハイではあん馬で失敗し、技数も足りず、決定点8.9というゴミ見たいな点数を出してしまいました。最後の年のインターハイでもあん馬で落下し、チームでも個人でも決勝に進むこともできませんでした。
自分で言うのもおかしいかもしれませんが、僕は頑張っていたと思います。頑張っているのに何故勝てないんだろう、何故失敗するのだろうとずっと思っていますた。その答えを見つけるため、そしてもっと体操が上手になりたいと言う気持ちで当時自分が入れる大学で一番強い鹿屋体育大学に進学しました。
世界が広がった4年間
鹿児島の鹿屋体育大学では年上にインターハイ優勝メンバーの人もおり、自分には経験がない『勝ってきた』人たちがたくさんいました。同級生にも全日本ジュニア優勝メンバーの堀内柊澄(現徳洲会体操クラブで今もチームメイトです)を始め強い人ばかりでした。
そんな中僕はと言うと最弱でした笑
弱いのもあり一年生の頃は試合もほとんどなく鬼のようなトレーニングメニューに悲鳴をあげながらついていくのに必死でした。それでも勝ちたい、試合に出たい、強くなりたいと思う気持ちに変わりはありませんでした。
その努力が実ったのか2年生では初めて全日本インカレに出場することができ、鹿屋の中でも戦えるようになってきました。また大学3年生の時には全日本インカレにチームと出場してノーミスの演技で団体3位、鉄棒6位になることができて初めて全国の舞台で表彰状をもらえました!この時はとても嬉しかったです。
しかし、鹿屋に来てからも高校の時の疑問が解決することはありませんでした。何故強いやつは強いのか。これが強い奴がそれに比例してめちゃくちゃ努力していたらわかりやすいんですが、そうじゃないことも多かったです。例えば僕が大学時代鹿屋をずっと引っ張ってくださってた前野風哉さん(現セントラルスポーツ)。風哉さんは調子が悪い時はとことん悪いです。すぐ態度に出ます。雰囲気にも出ます。明らかに機嫌が悪くなります。通らない時は全く通らないです。2018年の大学最後の年の全日本選手権前なんて明らかに絶不調でした。平行棒のおりの前方ダブルハーフなんていつも立てていませんでした。全日本の会場練習なんて跳馬の調子が悪かったのかカサマツしか飛べなかったと聞いています。それでも試合が始まってみれば、絶好調。2年連続のナショナル入りでアジア選手権の出場権も獲得しました。
風哉さん曰く高校の恩師に言われた『手を上げれば別人なんだよ』との言葉通りができる人でした。「試合は練習のように練習は試合のように」をモットーにやってきた僕からすれば意味がわからなかったです笑
今回の例では風哉さんをあげましたが、風哉さんは練習もすごく頑張る努力家でした。入学当時あの人を見てあんなに上手な選手がめちゃくちゃ頑張っているんでから俺も頑張らないといけないと思ったのを覚えています。
しかし、本当にあまり頑張らずにできちゃう人はたくさんいます。初めてやる技を3回くらいでできちゃう人や、あんまり通し練習をしてないのに試合じゃ見違えるような動きが出る人とか、いわゆるやればできちゃう系の人たちですね。世間一般的には「天才」と呼ばれることもあると思います。でも僕の中のイメージの天才とは少し違うので、僕はこう言う人たちのことを「身体の素質を持った人たち」と捉えています。皆さんの周りにも能力の大小はあれどこういう人たちいませんか?
夢の話
少し話が逸れてきたので軌道修正します笑
そんなこんなで大学で競技力をだいぶ伸ばすことが出来ました。大学3、4年生の頃には進路のことも真剣に考えてだいぶ迷いましたが、どうしても小さい頃からの夢だった
オリンピックに出たい!
この気持ちを捨て切れませんでした。小さい頃からずっと憧れてきたし、競技を始めてきてからずっと右肩上がりに競技力も伸びていて、このまま努力を積み重ねればいつかきっと手が届くかもしれない。可能性が少しでもあるならトライしたい。その一心で体操を続ける上でベストな環境だと思った徳洲会体操クラブに猛アピールをして、入社さしてもらいました。
いや、お前にオリンピックも日の丸も無理やろ。ってほとんどの人が思うと思います。僕だって自分の現在の実力と成績を知っているし、自分を客観的に見る力もあります。限りなく難しいことだってことは誰よりも自分が一番理解しています。それでもここで諦めたら絶対に今後後悔する。一生自分の夢から逃げたって自分で負い目を感じながら生きなければいけない。僕はそういう生き方は絶対に嫌だから、自分と向き合って本気でチャレンジするって決めました。本気で頑張ってダメだったらそれでも納得できると思います。
しかも、絶対に不可能なんてことはないと思います。だって小さい頃から考えたらあのみんなからバカにされてた僕が大学であの鹿屋でチームに入るなんて思わないし、ましてや主将を任せられるなんて想像してた人なんていないと思います。いつだって不可能だと思うことを可能にするのは想いの強さではないでしょうか。
さっきの話に出しましたが僕は「身体の素質」はそんなに優れていません。でも
「心の素質」
はあると思います。努力する天才とはまさに心の素質を兼ね揃えている人のことだと思っています。自分は先天的な能力である「身体の素質」を持った人たちに後天的に身につけられる「心の素質」を伸ばして勝っていきたいと思ってます。
初めから下手で、身体能力も平凡な僕だからこそ、僕が活躍することで、僕が上手になっていくことで、『頑張れば夢は叶うんだ』ということを多くの人に伝えれると思います。それが僕の役目だとも思っています。多くの人に感動を与えてあのアテネオリンピックの富田さんの着地のように僕だからこそ伝えれる感動を生み出すために、死ぬ気で体操に賭けたいと思います。
こんな感じで現在の自分までに至ります。これからも定期的にnoteを更新していきます。自分のこともですが、徳洲会体操クラブの魅力ももっともっと発信していけたらなと思っているので応援よろしくお願いします。
自分のnoteを見て何か思ったこととかあれば気軽にコメントしていただいても大丈夫です。またインスタグラムやツイッターもやっているのでそちらで連絡くれても大丈夫です!それでは次回の更新も楽しみにしていて下さい!
第2の人生(2024.4.12追記)
はい皆さん。この記事を書いたのが2020年の4月ごろなので4年ぶりに追記をします。
結論としましては2021年9月をもって約1年半のプロ生活と17年間の競技生活に終止符をうち現役を引退しました。
その辺の事は現役を引退表明したnoteがありますので、興味がある人はぜひ読んでくださいね。
あれから僕は習い事の体操教室の先生になりました!
最初は子どもたちとどう接していいのか分からず四苦八苦しましたが、上手に教えれるようになりたいと思い毎日過ごしていたら段々と保護者の方や子どもたちから信頼してもらえて、今では僕も子どもも楽しく体操を教えて、教わる関係ができるようになりました!
子どもたちには頑張る事の尊さ、挑戦することの大切さ、真剣に何かに熱中する経験などを知って欲しいと思い常にレッスンに臨んでいます。
僕自身オリンピックに行けなかった自分を自己否定したくなる時がたまにあり、その壁と殻を破るために日々奮闘しております。
僕も常に挑戦の連続です。
子どもたちの挑戦を後押しできるようなかっこいい大人を目指して頑張ります。
これからも応援してくださるととても嬉しいです。
よろしくお願いします!
第3の人生(2024/10月22日追記)
僕は9月で4年半おせわになりました徳洲会体操クラブを退職する事にしました。
そして10月からタイのバンコクに移住しタイのナショナルチームのヘッドコーチに就任しました。
4年後のロサンゼルスオリンピックにタイ人初となるオリンピック選手を出す事を最大の目標とし新たなチャレンジをします。
この海外移住は人生で1番悩んだ決断でした。
まずは徳洲会を辞めるという決断。教育機関のように終わりの期限がない中で、終わりを決めることは思っていた以上に難しく後ろ髪を引かれる思いでした。
また僕自身が徳洲会の事が好きだった為、ここでこのままいた先の未来を想像するとそれはそれで面白いなと思っていました。
しかし自分の兼ねてからの目標と人としてより成長したいと思い退職を決意しました。
次に迷ったのは海外のどこに行くかです。
色々な選択肢がありました。
カナダ、オーストラリア、アメリカこの辺が選択肢にありその3つのどこかかなと思ってましたので、まさか東南アジアにくるとは思ってなかったです。
しかし自分の目標に最適な場所がこのタイでしたのでここに決めました。
僕はどちらかというとキラキラしたものに目を惹かれますので、東南アジアは当初想像もしていなかったです。
ですが、自分で選んだこの選択を正解にすべくどこでもやる事は同じだなと思って頑張ります。
色々な失敗もすると思いますが全て肥やしにして成長します。
まだ僕の挑戦は始まったばかりです。
また今後も楽しみにしていてください!
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