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2015年07月16日 15:04 ニンゲンは「ジブン」と「タニン」をもつなど5つ


ニンゲンは「ジブン」と「タニン」をもつ

「だれかと一緒にこの感動を味わいたい」。それはニンゲン並には崇高な動機かもしれないが、この気持ちの時には既に帯域の下降が起きている。
ジブンが発生し、世界の分裂が起きている。「ジブン」があるために、「他者」を欲してしまう。
あるがままの主体の帯域では、主体は世界とひとつであるから、ジブンは発生していない。協和、万有、合一のみがある(と、あとでジブンが振り返った時に分かる。)


わたしはものを書くのがどうでもいいことだと知っている。そして、どうでもいいと(魂から)言うために、ものを書いている。ものを書かないためにものを書いているのだ。

現実世界では、幻影を本質だと取り違える、「逆」の錯誤が生じがちである。これを「逆」の錯誤と言う。目指しているものが幻影にもかかわらず、実質と見えるからだ。
だが事実は、本質はこちらがわにあり、目指しているもののがわにはない。ゆえに「逆」なのである。はじめからこちらがわに実質があることの認識。それがあれば、幻影をただ黙って過ぎ去らせる。


『ゴジラvsキングギドラ』はすごい

 ゴジラvsキングギドラってすごい映画だと思う。出だしが既に凄い。(笑)
「えっ何その設定!?」ってなっちゃう。
 もちろんいちばん凄いのは伊福部昭さんの音楽! メカキングギドラのテーマとか、特に凄いですよー。開いた口が塞がらない。映画の中で、未来人が出てくるけど、伊福部昭が未来人そのものとしか思えない。(笑)
 知られているゴジラのテーマの他に、もっとすごい曲が殆ど無数と言ってもいいほどあるのが、伊福部昭の凄さの一端を物語っているよ。
 オーケストラの使い方が本当にすごい。曲とオーケストラが一体化・不可分の域にまで、なじんでいる。このなじみの濃さは、みたことない。「もし自然が音楽を奏でたらこういう音になる」としか、思えないんだよねー……。伊福部昭には、オーケストラが一個の楽器、もしかしたら自分の声くらいにしか、観えていないのかもしれない。


クソアニメ

なんでクソアニメが好きなのか、「優しさ」を絡めて書いたことがあるが、言語化できた理由がもう一つあるので書く。
ワイはクソアニメをみると、クソな映像、音、声などの描写がされると即座に、無意識に、「本当はこのように描きたかったのだろう」という「最高な描写」を心象に浮かべ補完する。この行為は創造性を伴うためか、脳を快感で刺激する。完璧なアニメを観るよりもクソアニメを観るほうが実際に気持ちいいんだよね。完璧なアニメは手取り足取りもてなされている感が、脳を主体的に使えない感が、もどかしいんだな。たまにはいいんだけどさ。そりゃあ完璧なものを出されたら頷くよ。でも、面白みはないとわたしは思うよ。完璧なアニメの完璧さと、クソアニメ+ワイ補完による完璧さは、完璧さの度合いでは同じであったとしても、後者のほうが「じぶんが作っている」というライブ感(、セレンディピティ、一回性、インスピレーション等々、お好きな言葉でどうぞ。)があり、完璧な作品にもてなされているだけではこれは得られないものだ。結論から言えば、クソアニメ補完による完璧遊びのほうが、全然愉しいんだよ。だからわたしはクソアニメが好きなんだ。


「先生」と「僕」との対話


 (略)……僕にとってはそれは、理想的と見える姿だった。というのも、今までの僕の生活世界では、先生のような人に会ったことはなかった。先生が僕の前に初めて登場したとき、「これが僕の一番好きなカタチの人なんだ」と判ったのだ。
 それはとても不思議で、奇跡と思ってもいいのだが、先生は他の人に対しても奇跡を起こせるんじゃないかと思えるふしがあった。つまり、「見た人に最適な情報の集合体」という「カタチ」を作ってみせる、可変的な存在。大胆に言ってしまえば、僕じゃない男子や女子には、先生は僕が見ているカタチではなく、完全に別な姿に見えているかもしれないと思うのだ。というのは、先生は視線を据えて見ると確かに普通の人間のカタチをとっているのだが、暗い星を観ようとするように視野全体で観ると、髪の毛の先端あたりから、明るい光の粒がさらさらと流れていて、その粒子は空気に溶けて消えていくのだった。このことから、先生は「流動している」存在じゃないかと思った。エネルギーの流れ、情報の流れ、そういった何かの流れ。
 たとえば、静かに流れていた川が、滝のところでは水柱と轟音を立ち昇らせるようなもので。先生の姿は、「流れの一箇所を切り取って見せているもの」だと思うのだ。いつも注がれ、いつも出て行っている。「流れ」である存在……。
「それは君も同じだ」
 と、先生は、僕の内心を読んだように言った。
「この世界のことは、色々に形容することができるが……。エネルギーの一つの流れという表現も、もちろん適切なものだよ。わたしも、君も、流れのなかの一個の分子。もしくは、分子の集まり。ときには、流れそのもの。何の変哲もないこと。ただの事実、だよ」
 先生はそう言うと、また書類書きへと視線を戻した。
 僕はまだこの世界について分からないことが色々ありそうだ。
 だけどそれを知らされていくことはすごく興味深そうだ。煮え立つココアのように胸の中がワクワクしていた。


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