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2021年05月27日 22:49 「正しさ」の毒に侵される自我など3つ
「正しさ」の毒に侵される自我
小学校中学年くらいには、「正しさ」という仮想の軸が自我に通って、生涯に亘って自我を肥大させる下準備が整う。
100点を取ること、先生に褒められること、ダメと言われることをしないこと、学校や学級会で「いけない」とされる物事を叩くこと、などによって「正しさ」が養われる。
正しさとは、真理のみが使うことのできる言葉であり、表象の世界での正しさは全て、歪みを作る。それは学校によって行われている上のことが、大人の世界のネット・政治・経済・社会でも広く行われているのを見てもわかる。
真理はまさに正しいが、真理を言葉で描写することはできない。なぜなら其処から言葉が出てくる源が、真理というあのただ独つのものだからである。
100点を取ること、先生が褒めること、○○委員長という立場において発言すること等々、これらは「人間が正しいと決めている盲信」に過ぎないので、これを注入された小学校中学年以降の子供は、そのことに気付かなければならない。もしも将来、第一に社会で正しく生きることではなく真理をめざすのならば。
だいたい小学生がこれに気付くのは非常に難しい。というより、学校の教室という環境下で気付くことが非常に難しいのである。
かれらは将来は知的と言われる学生や社会人になるのかもしれないが、知的な気配のある者が正しさに基づいて説くご講話ほど傲慢なものもなかなか見られないものである。
しかし小学生にも、かれらが望むのなら(真理を第一に望む者はいつでも少数である)、ちゃんと真理を伝えてやらねばならない。少なくとも真理への道を引いてやることが、先に真理への道を歩いている者達のつとめであろう。
たとえば、「私は正しい」「(私やあなたは)~すべき」という言葉をガチで使うと寿命が3日縮むよ~、のような標語として小学生に教える、というなどが現実的かもしれない。(笑)
こういう標語ならば、健康に敏感な私達ならば、健康を考えて黙るようになるだろう。
創作以外に不感
自分は、創作のことを少し知った24~25歳くらいの頃には、なぜか、個人的な趣味といわれるもの全部に興味がなかった。というより、不思議と、倦んでいたとか、飽きていたという感覚のほうが合っていた。それらの趣味が、自分にとっては、純度が低いことだ、と分かり切っていた。これは誇張された感想ではなかった。
私が生きていても、私が今熱中しているものにはいずれ飽き、今の友人とは時期が来れば離れたり別の友人と入れ替わったりし、移る環境や時代に私が左右され、どんな趣味や仕事や(哲学や芸術以外の)勉強にも飽き、恋は恋ではなくなり、人間関係は時間に従って新陳代謝し、私の心身もいずれ棺桶に入り、私や私の世界の全部が今とは別の姿に変わり続けるのだという、その当たり前のことが分かっていた、というより、既にわたしの中では私はそこまで終わって棺桶ごと葬られている感触があった。
わたしは、自分はたまたま24~25歳でそうなっていたが、いずれ友人など他の「私」たちも、遠からず同じことを知り、あるいは既に知っているだろう、と思っていた。
だから、わたしたちが、「私」達の会合やパーティーに参集する時は、必ず演技であり、「私が熱中する演技」をしているのだと、自分は思っていた。
他の「私」達がどう思っていたのかは、もちろん解らないのだが。
かくして、わたしは創作をとりわけしたいから、創作をしたわけではない。生きることの純度を持続した、ないしは上げた、その結果、必然的にわたしの生は物質世界上では創作を重視する形をとったにすぎない。
私にまつわる全てのものごとは勿論、人間であること、個体の意志や望みや目標や夢、それらの重く燃えて燻る石の枷がみな要らないものが、わたし自身であると判っていた。
そして、わたしであること以外に、何か一つとして必要なものがあろうか?
私が必要だろうか? 心身が必要だろうか? 想い出が必要だろうか? 若さや、みずみずしい肉体や、麗しい容姿や、物的な資産が必要だろうか? 日本や、現在の地球や、宇宙が必要だろうか? いずれも必要ないのである。
ここまで明白に言語化する必要はないとしても、直感していなければ、人は「私」を生きることに終始するにちがいない。
だから、「私」で生き続けるか、わたし自身であるか、という選択は、任意のものというより、資質である。「私」に醒め切って、これを何とか取り除きたいという、湧き上がる欲動が強くなければ、わたし自身である方向へ舵は切れない。なぜなら、「私」の世界の内側で生きているかぎり、「私」は「私の世界」を失いたくないと心から思っているし、「私の世界」を保持し強化する行動を積み重ねるからである。
しかし、「私の世界」が贋物だったと、棺桶に入ってから棺桶の蓋に釘が打たれている時に気付いたらどうするのか? という遠い雷鳴のような予兆を少なくとも感じた者は、疑念が兆さざるを得ないのである。
「私の世界」を失いたくないというのは、本当にそうなのだろうか? と。
創作は、他人にとっては、全く別のどうでもよい意味になる。
わたしにとっては、それはもっとも望むただ独つのことであるが、私や、他の人々からみれば、創ったものが残るとか、鑑賞するとか、そういう意味が出てくる。どうでもいいことだ。
作品というのは、わたしにとっては、全くどうでもいいものである。だからわたしは自分の作品を読み返したことは推敲以外では一度もない。
作品は、わたしにとっては、参照するまでもなく、わたし自身(のもの)だからである。
人生の完璧なシナリオ
生きることのシナリオ、采配は、よくよく完全に完璧にできているものだと繰り返し想う。
たとえば、自分は、2018年頃、とある「恐怖体験の時期」を経験した。(ここでは詳細は省く。)
思うに、この恐怖体験の時期が、最初の頃、24~25歳の頃に来ていたなら、自分は作品を一つも作ることはなかったかもしれない。
または若い時に、美女たちと交合しまくっていたら、一年くらいで飽きて、美しいものへの探求も、今より底が浅かった可能性もある。
ところが実際はどうだったか。
理想を描く時期は理想に専念させ、いくつか作品を残させて、その後で地に足を着かせる。
つまり、一度たやすく制作できるようにさせ、制作を通して神々しいものを経験させる。
その後で、地べたに落として(笑)、空への夢を見させる時期を与え、「作品のあの光は何だったのか?」「自分は神々しい時期に何を表現したのか?」ということを、煉獄の地面を重い足で歩く経験から学ばせる。
振り返ると、そういう流れになっている。
最初に観た夢は、まぎれもなく本物の本質的なものである。
だが、煉獄に落ちると、夢は途端に見られなくなる。(そういうものなのだ。)
夢のかぐわしい幻想は、汐のように遥かに引いてしまい、現実の地面が残される。
煉獄の数年は、光の糸口を探し、現実の地面を歩く時期であった。
いわば、「感じ」で分かっていることを、明文化していく過程ともいえる。
最初に総論を教わり、次いで各論を教わるとも言える。
自分にとっては、使えていた魔法を突如取り上げられたようなものだ。王道RPGでは起こらないようなそんな事が、実際の世界では起こるのだ。
それまで魔法で簡単にやっていたことを、魔法を使わずに、多大の労力を使って為さねばならない。凄いことを一動作でできるから魔法なんで、使えなければ手仕事で、とうていできない作業量を積み上げなければならなくなる。ほぼ望み薄。
そうした数年は苦しかったが、特にこの一年は、この煉獄の地面を歩くことを、わたしは自ら望んでいた。
そして歩きながらわたしには分かっていたことだが、一日ごとに私自身があっと吃驚する飛躍ばかりが繰り返された。
そして今は、自分が創作初期(2018年まで)に表現したあの光は、神々しいものは、何だったのか解る。
また、当時の自分が、どうして日々、直感の到来を望み、創作への跳躍を繰り返していたのか、理想境の景観を描写するのに自分の心身を糧にして燃やしていたのか、そうしたことも、みな解る。光へと跳躍するかぎり、光への距離を代償として差し出さなければならない。夢も現実もない。魔法は魔法ではない。自分が知っている、魔法にまつわる一切を忘れる。魔法使いの教習の最後の科目はそれであった。こういう筋書きを自分の人生に用意しているわたしに、わたしは光を捧げる。
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