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2014年05月24日 13:06 30過ぎたら男はアニメなど3つ

すべて世は事も無し

 この世界はさまざまな仕掛けを宿しながら巨大なひとつの機械箱のように動いている。
 世界は巨大であり、深く、多様な意味に満ちたものである。
「意味」とは、ある価値をある者(達)が実感を伴なって理解するとき、そう理解された価値のことをいうのだろう。
 この世界には、あまりにあまたの価値が存在する。
 価値の多様性としての世界。
 喩え話をしよう。ギヤボックスが一つだけあれば、「ある機能を果たす機械を動かすため」というように、意味は一つとなりえる。だが、ギヤボックス構造が千、万、無限……に迫って噛み合っている「ギミック・ボックス」のような巨大存在を構想したならば、そのボックスは、総体として何を稼動させているのかもはや判じ得ない。または、何が稼動しているか明らかになったとしても、そういった宇宙的なスケールのものをわれわれの生に引き寄せて扱うことはもはやできないのである。
 この世界は、そう、価値の多様性としての世界なのだ。おそるべき深さと底知れなさ。価値の多様性としての、この世界とは、実際に表が裏となり、裏が表となるというような構造を持っている。階層の深さ、情報の多様さ、情報間の密で精緻きわまりない連関、などのゆえである。荘厳で奇怪なる巨大な異形の機械箱は、今日も平常に稼働している。
 これを『すべて世は事も無し』という。


よき理性機能と音楽

 わたしはかねがね、『直観なき概念は空疎である』というカント的な立場から、よき理性の働きとは直観と共和・一致するものであるという見解を取っている。
 この機能における理性は、わたしにとっては、たとえば言葉のみを連ねて何か意味や正しさがあるように見せかける装飾にも見える、法律文や政治家の答弁とは、奇麗すぎるほどの対極に位置するものである。
 ただしこれは、わたしが法律や政治に不勉強であるゆえかもしれない。

 わたしはよき理性機能の表れを、よき音楽の鑑賞において感じる。
 たとえばバッハの音楽。
「よき理性という感覚」、を伝えようとしているのが、バッハの音楽であるように思う。理性が正しい方向に向かい、自然(この世界全体、と言ってもよい)との調和を得ていく。
 しかも、理性の手綱を決して放すことはなく、自然との調和を、丹念に段階的に、言語によって記述していく上昇活動。それが感じられる。

 いわば、バッハの音楽によって得られるのは、自然と伴走する理性、という快感なのだ。

 これがよき理性機能の表れだと、わたしは捉えている。理性とは本来、そうあるべきであると思う。
 口先や言葉だけで人間を操る、概念の化け物のような言葉は、理性の外道のありさまであり、落ちぶれた、やさぐれた、理性である。

 なお、バッハから快感として感じるものと全く同じもの、いや、それをより高出力にした形式を、わたしはドリームシアターの『On the Backs of Angels』などに観ることを付記しておく。

 このような音楽の鑑賞では、カラダと言語の流れが完璧に一致する。鑑賞により起こるカラダの感覚や動作を、一語も漏らさず余さず、正確に記述していく。カラダと言語が等速で併走していく。このドライブ感は、カラダの快感だけでは得ることはできない。
 カラダに欠乏している言語という感性。言語に不足しているカラダという直接性。ふたつが相互に補い、増大し合う。
 この歓び。
 まさに人間!!
 ここまでくると、音楽が通常の五感レベルを超えて迫ってくる。
 味や質量を持ったかのように感じられてくるのである。音楽がおいしい。ずっしりと重い。風のようにすがすがしい。光のようにまぶしい。美術画のように絶妙な色合いを持つ。……そのような存在が掛け合わされた、美しい一体のキメラ――これは現実世界の帯域には顕現し得ない、そしてこれこそ、芸術が掴み取ろうとする対象である――のように、音楽が鑑賞されてくるのだ。
 もっとも、このレベルで鑑賞できることは、決して数多くはない。この域に入れてもらえたとき、わたしはその恵みに、感謝するのである。

 生理学的には、このような鑑賞からは、人間のカラダは潜在的機能を相当に制限しているのではないかと思うこともできる。
 この見方からは、極言すれば、カラダは「ハンディ地獄」のようなものである。世界とよきコンタクトをするのを積極的にさまたげるものである。
 わたしの言葉でいうと、このような機能としてのカラダは、「相対的低位帯域(=現実世界)」の代表的な存在である。
 カラダがハンディ地獄としての機能をよく発現することを知っていれば、この世界でのわれわれの判断がよく誤ることも判ろう。
 そういう事実を客観的に知っていれば、ハンディ地獄を発動させているときのカラダを脇に措いておいて、望ましい判断を下すこともできるようになろう。人生においてよき判断の回数を増やすことができるようにもなるだろう。


30過ぎたら男はアニメ


 アニメがこの世界の美しい形式を抽出して連関させたものである――そしてわたしはそのようなものであることをアニメに期待しつづける――ならば、「どういったものがこの世界の美しいものなのか」を知った者こそ、アニメを充分に堪能するにふさわしい。作品の全部を受け取り解釈する資格があるのは、世界の美を、自分なりにひととおり知った者なのだ。

 わたしは友人が言った『30過ぎたら男はアニメ』は名言だと受け取った。(友人いわく、『のりりん』の『30過ぎたら男は自転車』の改変だそうだ)

 この世界のきれいなものを集めたり、うまいものを食うのに飽き足らなかったり、女の子(異性)を貪って徘徊したり、「価値」とされているあらゆるものに惹かれて目をぎらぎらさせている若者には、アニメが与えられる意味はあまりない。
 この世界に熱狂をもってコミットできる者は、この世界でのゲームを優先すべきだ。この世界の美しいものを見て歩き、学び取っている道の、まだ途中なのである。

 この世界の美しいものを完全に知り、弁えた者にとってこそ、アニメは完全に理解される。
 この世界の美の粋(すい)を、アニメによって理解するのである。
 魂で世界と共鳴する。

 アニメだけじゃなく、文学もそうだ。音楽もそうかもしれない。
 芸術は、自分なりに、この世界を一冊の本にまとめられる程度の学びを経た者にこそ、作品に込められた生(き)のままの輝きを見せることであろう。
 この世界を知る途上にある者にとっては、芸術作品は、「この世界で見る他の美しいもの」との区別が、明確につかないであろう。


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