2021年04月30日 17:51 個人と人生など2つ
個人と人生
私(個人)の外部の世界や他人を私の思い通りにしたい、という思いほど私を歪めるものはない。
たとえば、何かや誰かに遭って、「嫌だな」と思ったとする。それは「私の望むものではない」という、私による判断である。表象の世界では、見た通りの物が認識される。だから「私の望まない嫌なもの」が認識されているのである。
当然、「私の望まない嫌なもの」は、私に圧迫や打撃やストレスを与え、私を歪めるだろう。
この根底には、「世界や他人を私の望み通りにしたい」という、私の思いがあるのである。この思いは、私にとってまさに重いもので、私を歪める圧になる。
この仕組みが、私・自我、であり、人生を懸けてこれと向き合うことによって、人は非本質的主体から、本質的主体のへと脱皮していく。このような人生は、美しい一幕の物語であることは確かではないかとわたしは思う。
たとえば、見ること(たとえば端的に目で見ること)は、見たいという意志である。
同様に、触れることは、外部を自身に従わせようという意志である。
このようにみていくと、個体の判断は、個体としてそうありたいという意志である。個体の意志は、個体の認識とも、「私の力」とも、言い換えることができる。
私の力を、私が用いると歪んでしまう。というのも、私の力は、私と同じレベル(階層)の力である。私を超えるレベルの者でなければ、私からの影響を受ける。
たとえば神は人間に力を及ぼす。その逆がほとんどないことは、人間は神社のような処で神にお詣りするが、その逆の場所、神が人間にお詣りに来るような場所が無いことからも解る。
本質、神、ならば、私を収めることができる。これが「無碍」である。
本質と教育
芸術が生活にすり替わってはならない、というのは、個体の欲望において芸術を行ってはいけない。個体において行ったならば、表現形式やできた作品が、世や人に芸術として知られるものであっても、芸術ではなく個体の欲望つまり自我であって、いわゆる普通の生活であって、私の苦しみの持続である。
それは、あの無限の種類の重い空気を拝する宗教、つまり(意識的である場合もあるが、大半は無自覚な)黄金の脳の像への崇拝を繰り返すことになるのである。
個体の目の前にある苦しみから目を逸らす為に、腹が減った時に出前を取るように芸術を用いてはならない。なぜなら苦しみをもたらす非本質的なものごとへの観察が、求められているからである。
個体の意欲において芸術を行ってはならない明白な理由は、それをすると真理から遠ざかることになるからである。
自分を騙すことはできないと知っている者が、芸術に堪える者である。
芸術は一度やったらそれで充分なのである。なぜならそれで全てが判るからである。芸術は直感で成されるから、制作者は「どういうわけかできた」という感想を抱く。
そして、どういうわけか一度芸術を行った者に対して、「それはおれもできる」と「私」がしゃしゃり出てきて、その者を征服するのはよくある例である。一度やって、充分に判っていることを、「まだ判っていない。永遠といえるほどに積み重ねる、修行的道のりを積まなければ、充分にはならない」と、芸術家(のふりをしている「私」)は言う。
「判ること」の内容を、「脳がたえず快感で満足していること」と、故意に取り違えているのだ。修行は「私」の快楽に過ぎない。
個体の意志が真理のふりをして制作者を征服している限り、エセ芸術を繰り返しひり出す、修業のための修行という脳快楽が続く。これは、ずっと「新しいことを学び続ける」ことができる非本質的世界での「芸術」であり「真理」である。
生理学的には、脳は、時間と空間の異なる表象を別物と認識するから、脳自身の力では、見かけの異なる表象からイデアを抽出して認識することは殆どできないと思われる。
「私」が「全てを知っている」と言いつつ、自身の快楽しかめざしていない事実は、個体的意志の強い人間が服で覆い隠した性欲であるさまと瓜二つである。
個体の意志の強さは各人によって異なる。
修行で積み重ねる人生が、真理の一瞬に迫ることのできぬ濁ったまがいものであることは、人並み以上に個体的意志の強い人間でないと、気付くことは難しいかもしれない。
というのは、個体的意志は思考であって(論証はここでは書かないが)、個体的意志の強い人間は自身の思考で得る快楽以上に、自身の思考によって苦しむから、個体的意志の快楽つまり修行的行き方の中に沈殿している濁りや、微妙な屈折に、ふと気付く時間があるからである。
これが、哲学の始まりであるし、また哲学の観察に深まりを加えるものでもある。
人並みの個体的意志にとどまる人であれば、人生とは自分がよくなり続け、成長し続け、学びつづけて充実の度合いを高めていくものだという、加点法の、いわば「教育的」視点で、人間や世界を捉えるのかもしれない。
だがこの世界観は、非本質的主体において(要は人間社会において)、つまり自然法則の地面から浮いた世界観でだけ成り立つものである。
非本質的世界では、もともと決定的なもの(本質)が抜けているから、いくらでも足していけるし、足していかなくては充実に近付けないように思う。
だから、本質的主体へは、減点法なのである。非本質的なものを次々と取り除いていく。「構えない」たたずまいに近付いていく。
そうやって、自然法則から浮いている自身を、ほんらいの地面に着けてやるということである。
これがカギカッコのつかない、いわば本質的な意味での教育であり、この教育とは【知る】ことである。
本質的認識の感覚、方法、世界や人間といわれるものの実態・事実、具体的な非本質的認識の解除などを通して、本質的なものごとについて【知る】。
それは「教育」的に、頭で知ることとは、方法論が異なるのだ。
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