2013年01月28日 05:28 言葉に使われないことなど3つ

学問や創作と、自分の世界観


 学問や創作をするには自分の世界観というものが必要で、これは世界を常にある同じ一点から見られるような足場を設けるということである。そして作業のたびにこの足場に立たなければならない。
 この足場を作る事業は、内面的な感覚では、(学問や創作をする)「自分」というソフトを自分で組み立てて完全なものにするような作業である。世界を見る「自分」を厳密に設けておかなくては、対象である世界を厳密に観察することができないし、また言動や記述の客観性が保てない。
 世界観を持てるまでの「自分」を構築することは、言い換えれば理性や知性のソフトを作りきちんと作動させることであって、それなりの労力が要ることである。
 このソフトが完成していれば、カラダやココロとしてのジブンに入力される凄まじい量のログを、稼動する「自分」というソフトがスムーズに処理してくれる。だからソフトの稼動の結果、一定の流れのある処理結果が生まれる。それが世界観である。逆に言えば、世界観が自然に生じるような学問や創作は、一定の厳密さと客観性が保たれている。
 これに対し、「自分」というソフトを作ろうという意識もなく、漫然と世界や生活を流しているような者は、OSが無いかほとんど無いガラクタのコンピュータも同然である。そこには膨大なログがたえまなく流れ込むが、OSとしては一つや二つのログを行き当たりばったりに参照する程度の機能しか持っていない。このようなコンピュータは、ログを保存するただのハードディスクか、もしくは簡単な画像ビューアも同然である。とはいっても、保存媒体への需要も世の中にはあるから、こうしたコンピュータとしては、保存媒体としての機能を果たせばよいということになろう。

ある種の発狂と、悟りとの関連

私は発狂したことはないが、ある種の発狂と悟りというのは近いのかもしれないと思う。
自我(自己)が崩壊するような発狂のケースでは、世界は幼児の頃に見たように、意味が融けた表象だけで満たされて見えるはずだ。その景色は、ある悟りの段階において見える世界と非常に似通っている。
ありのままの世界、である。

言葉に使われないこと

 少年から青年になるにつれて世界がよそよそしく思えるようになった経験はないだろうか? 
 その経験は理性の発達の過程と時期を同じくしていないだろうか? 

 主体の厳密化機能としての自己(要は言語的な自己、「わたし」という存在)は、じつにまことに、世界を精密に把握する理性の座である。
 しかし、やはり、半端な理性は自己自身を蝕み、世界と敵対させたり、自作の架空の不愉快な檻に自己を閉じ籠めたりする。
 ゆえに、理性を本当に厳密に使いこなそうという意欲のない人は、むやみに言葉を使わぬほうが無難であると思う。

 自分が完璧に理性的だと思い込んでいる人間ほど、自然に残忍なことができる者はいない。これが狂信という状態である。
 狂信は、宗教だけでなく、生活においてもありふれている。ふつうの人間の多くが狂信的な面をもつ。

 人は誰もが言葉を習得するのに、なぜ言葉の正しい使い方を教えられていないのか? それを知る者がきわめて少ないからである。

 言葉の正しい使い方を知るには、言葉を誰よりも多く使う経験を積まなければならない。
 それはもちろん、多量の言葉に使われる経験とは違う。


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