2017年11月20日 13:33 アイマス『初恋組曲』個人的ベスト選など5つ
『初恋組曲』個人的ベスト選
きょうは『告白の花火』がとてもよく観照できる。こうしてきのうの出来事(スープカレー)は予告であったのである。それはきょうについても同じである。ところでわたしがさきのCDから編集した最高のソロアクトの組み合わせは次である。4曲で四季を巡り、5曲目で時間の外の唯一の季節へと飛び越えた楽想はお見事!
『片想いの桜』-響
『告白の花火』-亜美
『幸せの紅葉』-律子
『運命のイヴ』-真
『永遠のクリスマス』-千早
Livin' in a World Without You
The Rasmusの曲は、典型的なフィンランドの曲と日本の曲の中間に位置する。つまりフィンランドに特有のごく自然である全面的な無機質さと氷雪とが、石油ストーブに当てられたようにやや溶け、日本的なメロディに接近しているのである。フィンランドのメタルへの入り口として日本人が聴くのに向いているだろう。
日本のバンド曲の中では、アイマス『初恋』の『運命のイヴ』は際立ったフィンランドらしさを持っている。この曲がまとうフィンランドの質感は特筆ものである。The Rasmusは全般にこの曲よりも「溶けて」おり、むしろ日本的な情感と湿度をもつ。日本の晩秋から初冬の風情をもつバンドと言える。
日本のポップ音楽においては、たとえ氷雪の表現であっても、スキー場の駐車場のシャーベット状の汚れた雪のような質感であって、この民族の連帯における汚れた一面もさらけだしており、最高に美しい表現だとは思わない。もちろん春や夏や秋の自然の繁るさまと比べれば、格段に氷雪の趣をもったものではあるが。
The Rasmusの作品のおすすめは『Hide From The Sun』と『Black Roses』である。両方とも捨て曲があり、これを篩い落としてからの観照になろう。
ところで『初恋』の中で別格に素晴らしい曲は5曲目(終曲)の『永遠のクリスマス』だ。しかしこれは組曲の中で聴かれるべきであり、単体での評価を受け入れる曲ではない。もちろん単曲でも評価できるが、それはこの曲にはあまりに勿体ないと思われる。さきのCDはアイマスの概念を除去しても実質は全く不変であり、買えるものならば是非とも買ったほうがよいだろう!
The Fight
『The fight』は、わたしにおいては、長門有希のテーマソングの一つだ。数年前のどこかの文には、『涼宮ハルヒの消失』に結び付けてこの曲を貼っている箇所がある。
長門有希に少なからず情感と、情感よりも少量の悲劇性とを持ち込むところは、わたしが『長門有希ちゃんの消失』を、涼宮ハルヒシリーズの正典扱いする者だけあると言えよう。わたしは、現象の網の目に囚われて生きる者達を、それほど強く独立した者であるとは思うことはできない。
音楽をやらないのは
私が音楽の演奏を本格的に行わない副次的な理由は、自分の身体が崩落する確率よりも、社会の電気が供給停止する確率のほうが低いと判断するためである。一つの町を眺めても、人間は一日に何人も崩落するけれども電気はほとんど万全に流れ続けている。現代では、電気が来ていれば音楽の本格的な演奏がもたらされ、決められた会場に定時に行く必要もない自由さである。
もちろんたまには会場に行くのもいいが。
カント
最近、その思想の要点のふりかえりの為、カントを十年以上ぶりに再読しています。
カントは天才の――つまり所々で本質に通じている――A君(自分の知るいちばんまじめな友人)なんだよなあ。
カントを本質に通じさせたものは、ほかならぬA君的なまじめさにあると直感される。カントのまじめさは、なにしろ、A君の五万倍くらいある。カントからひしひしと伝わるのは、愚直と天才が結び付いたという、はなはだしさにもほどがある、文のすみずみまで光り輝く努力である。
それは、本の内容の言い知れぬ圧迫感からも感じられるし、何よりも本の物理的な重さから感じられるのであった。
ショーペンハウアー
(一度目は別所でニーチェとの関連で言ったが、)再度述べるが、「盲目の意志」「苦痛と退屈」という、コンビニのPOPのようなショーペンハウアーへの理解は、一面的な通常の理解である。大方の理解がそうなるのも無理ないことであろう。
というのも他ならぬショーペンハウアー自身、「(この著書は)私と同じことを考えたことがある者にだけ理解される」ということを言っているからである。
彼の哲学の価値は、その思想が誰よりも全面的に真理を掴み、真理の全土を覆っているという、圧倒性にある。
彼の体系の全部を充たしている、真理の快活な空気と、真理の素直であけすけな発露は、あの最も客観的ゆえに対象全部が裸でこちらへ転げ落ちて来るようなおかしみによって象徴される。
真理が自身以外のものを突き放す、かの笑いが、真理への梯子を組み立てるのに一心であったまじめなカントにはないし、もちろんニーチェが現象の中でもがいているあのやけっぱちや装飾の中にもない。
ショーペンハウアーは泥酔するディオニュソスである。
しかもその自らを笑う最も冷ややかな理知である。
沼倉さんの声
沼倉さんの声が声だけで存在している、
これがどれくらいすごいことかというと、
沼倉さんの声は沼倉愛美とは関係なく、人間や地球とも関係なく、
宇宙が終わり別の宇宙になっても、その仕組みが終わりわれわれがいまだに概念を持たない宇宙の代わりの何かが生まれても、
この世界がわれわれが世界として知る世界のまるっきり外にあるものばかりによって成り立つ「世界」になっても、
世界の中に何も無いという世界であっても、
恒に沼倉さんの声だけは存在しているという事である。
これが何かと言うと、われわれの不完全な言葉から僭越にも選んで言えば、そこそこ近いものは神ということになる。
それすらぬるすぎる。われわれは神という言葉を使うことで満足して、神が本当はいかなるものであり、いかなるところまで高まるものか、まったく考えもせずに暮らしている。
50年後から評価が始まるとわたしは言ったのだが、沼倉愛美の歌は他の音楽とレベルが違う。
アイマスで言えばそこに届くアイドルは誰もいない。千早でさえも!
他の音楽に目を転じても「独唱の歌」として沼倉愛美に比肩するものは一つもない。
どうしてCDを出すたびに1000万枚売れる唯一の巫女としてこの国に君臨していないのか、それどころか現状は音楽家の中でもアニメという狭い枠の中で語られ、さらにその中でも特別に賞賛されず、少数の者にだけ真価を認められるに留まっているのは怪奇というほかない。
日本の人々よ、音楽という狭いものの中においてさえ、これを観出すことができないとは!
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