【百年ニュース】1921(大正10)10月1日(土) 物真似師の江戸家猫八(3代目)誕生。1940(昭和15)古川緑波一座に入団するが,2年後に召集を受け南方戦線に出征。のち暁部隊配属,1945(昭和20)年8月6日広島市宇品で原爆により被爆する。同じく暁部隊で被爆した同僚に思想家の丸山真男がいる。2001(平成13)没。
動物の声帯模写で知られる物真似師で、俳優でもある3代目江戸家猫八が東京で誕生しました。本名は岡田六郎。父である初代江戸家猫八の六男だったため六郎と名付けられました。少年時代は父親の一座とともに北は樺太から南は九州まで各地を公演して廻りました。
1940(昭和15)年、喜劇舞台の古川緑波一座に入団しますが、翌1941(昭和16)年12月に第二次世界大戦がはじまると、1942(昭和17)年に陸軍の召集を受け、ラバウルなど南方戦線に出征しました。のち陸軍にあって海上輸送など「海」に関する危険な任務を担当する陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」に配属となりました。この暁部隊は広島市の主要港湾である宇品に置かれました。ここで岡田六郎、つまり三代目江戸家猫八は兵長を務めていました。年齢は23歳でした。
そして1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、被爆することになりました。広島の陸軍部隊が駐屯していた広島城は爆心地の至近距離にあったため原爆の直撃で壊滅し、司令官の藤井洋治中将も即死。爆心地から4㎞離れた宇品の陸軍船舶司令部(暁部隊)が「広島警備本部」として指揮を執ることとなりました。江戸家猫八は広島市内に入り救護活動に従事することになります。
当時この暁部隊には、東京帝国大学法学部の助教授でありながら召集され、二等兵として配属されていた思想家の丸山眞男がいたのは有名な話です。当時丸山は31歳でした。江戸家猫八も丸山眞男もそうですが、原爆投下直後の広島市内に入り、市内の救援・医療活動に従事しながら、市内に残留していた放射能によって二次被爆を受け、生涯にわたって体調不良に悩まされることになりました。また目の当たりにした光景があまりにも悲惨だったため、生涯トラウマとなり、長い間この体験を語ることが出来ませんでした。
1950(昭和25)年、三代目の父である初代猫八から名跡を受け継いでいた弟子の二代目猫八から芸を教わり、この年、三代目江戸家猫八を襲名することとなりました。1966(昭和41)年,円谷プロと東宝の特撮テレビドラマ『快獣ブースカ』に出演。その後も多くのテレビドラマに出たが、代表作となったのは『鬼平犯科帳』。長谷川平蔵の無頼時代の取り巻きの一人で、密偵として活躍する「相模の彦十」役を演じ強い存在感を残しました。
2001(平成13)年、心不全のため東京都青梅市の病院で亡くなりました。享年は80歳。父、初代江戸家猫八の墓所がある雑司ヶ谷霊園に葬られました。
三代目江戸屋猫八の父、初代江戸家猫八(岡田信吉)は1932(昭和7)年に巡業先の高崎で急死しました。享年65歳でした。とのとき巡業に同行していた三代目猫八(岡田六郎)は当時10歳でした。
死の間際父の初代江戸家猫八は息子の六郎に「お前の鳴く虫の音を聞きながらあの世へ行きてーんだ」と言ったと言います。
息子「おとっつあん,聞こえたかい」
父「ああ聞こえたよ。ありがとよ」
そして初代江戸家猫八は静かに目を閉じてあの世に旅だったとのことです。