【百年ニュース】1921(大正10)3月2日(水) 皇太子裕仁親王渡欧の随員,西園寺八郎の6人の子供が隣人の親友赤星鉄馬宅に預けられる。八郎は西園寺公望養嗣子。2月26日に皇太子渡欧反対の暴漢に襲われ怪我。妻の新(公望と小林菊子の娘)は前年スペイン風邪で死去。長男西園寺公一はのちゾルゲ事件に連座。
大正10年2月26日,鉄馬の親しい友人で近隣に住む西園寺八郎(宮内省式部官)が,麻布片町の自宅で暴漢に襲われた。
抹殺社を名乗る6名は朝7時に西園寺邸を訪れた。
斬奸状を持って面会を求め,断られたものの室内に闖入し,帝国を毒する奸賊と叫びながら西園寺に自決を迫り,暴行におよんだ。
西園寺は日本刀を振りかざして応戦。犯人はほどなく駆け付けた鳥居坂署員に全員逮捕された。
20歳から23歳の彼らのうち,東京出身は2名,ほか4名は地方出身者である。彼らが何を理由に皇太子外遊に反対したのかは判然としない。
西園寺襲撃の際の言動は,社会主義者というより国家主義者としか思えないのだが,彼らに思想的な裏付けや運動の実態はなかった。
知り合って間もない者同士が事件へと突き進んだ理由もわからない。
地方からの流入者が増大したこの時代の東京ならではの出会いがあり,おそらく収入もなく屈折した感情をかかえた「無産階級」の若者たちを結びつけたのだろう。
事件の翌日,鉄馬は妻文とともに西園寺邸を見舞ったが,新聞の取材には応じていない。
ゴルフや釣りの仲間でもある西園寺が襲われたことは,鉄馬にとって大きなショックであっただろう。
与那覇恵『赤星鉄馬 消えた富豪』中央公論社,2019,234-235頁。
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