【百年ニュース】1921(大正10)7月22日(金) 信濃国小野の国学者,倉澤清也(義髄)が死去,享年88。平田篤胤に傾倒,1864(元治元)藤田小四郎らが率い京都に向かう水戸天狗党一行を案内し伊那谷から木曽谷に抜けさせる。島崎藤村『夜明け前』に登場。倉澤は半世紀に渡り矢彦神社(長野県辰野町) 祠官を務めた。
国学者,倉澤清也が死去しました,享年は88歳でした。別名は倉澤義髄。島崎藤村の「夜明け前」を読んだことがある方は、こちらの義髄という名前の方でピンと来るかも知れません。この倉澤きよなり、あるいは倉澤よしゆき、は、1832(天保3年)、信州小野、現在の長野県上伊那郡辰野町小野で生まれました。
平田篤胤に傾倒し,地元信州で国学者となりました。1854(安政元)に江戸に入り、水戸藩の学者でありました藤田東湖に会います。そしてこの藤田東湖と会った年から、ちょうど10年後になる1864(元治元)、水戸天狗党の乱が発生します。御存知の通り、武田耕雲斎ともに天狗党の乱のリーダーとなったのは、藤田東湖の息子である藤田小四郎です。水戸藩はそもそも江戸幕府による日米修好通商条約調印を不服としていましたが、藩内の過激派は横浜港の鎖港を主張し、挙兵して強硬手段に出ることになりました。これが水戸天狗党です。天狗党は京都をめがけて進軍し、高崎藩の藩兵と下仁田戦争、高島藩・松本藩とは和田峠の戦い、というように激戦を繰り返しながら進みます。
そしてこの倉澤義髄の地元であります、信州の飯田藩においても、通過する天狗党の一行と戦いが不可避の状況に見えたわけですが、ここで倉澤が登場しまして、一行を案内し伊那谷から木曽谷に抜けさせることに成功しました。飯田藩での衝突は避けられ、結果として、すでに幕府追討軍との戦いで消耗していた天狗党が福井県敦賀に到達するのを助けたことになります。
残念ながらこのあたりの事情は、NHK大河ドラマ『青天を衝け』では省略されておりました。いずれにしても天狗党の挙兵は失敗し、武田耕雲斎と藤田東湖の息子であります藤田小四郎をはじめとする天狗党の主要構成員352名、は福井県敦賀市の来迎寺境内におきまして、1865(元治2年)斬首されました。
さて倉澤清也は、地元の信州小野に残りまして、二之宮となります小野神社・矢彦神社の祠官すなわち、神主を約半世紀に渡り務めました。島崎藤村の小説『夜明け前』では倉澤義髄として登場し、仏式の葬儀を否定し、日本古来の神式の葬儀に改めるべきだと主張し奔走する人物として描かれています。