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【百年ニュース】1921(大正10)8月17日(水) 三井物産吉林出張所(材木部)宮本次郎八が馬賊「草上飛」に捕まり,身代金500万円,38式銃2丁,弾薬1,000発等の要求があった。のち草上飛が率いる馬賊は抗日勢力となり「老北風(張海天)」と行動を共にするが,1932頃に遼寧省盤錦市の田庄台付近での戦闘で死亡した。

三井物産吉林出張所の材木部に所属する社員、宮本次郎八じろはちが馬賊に捕らわれ、身代金が要求されているとの報道がありました。

宮本氏は8月11日に吉林から松花江しょうかこうを渡った2里、約8㎞の地点で馬賊50名の襲来を受け、中国人らとともに連れされれました。襲撃した馬賊の頭目「草上飛そうじょうひ」という名前で呼ばれている人物でした。草上飛とは、非常に速いスピードで地上を走る動物や人物を表現する言葉で、もちろん本名ではなくあだ名です。当時の馬賊はしばしばこのようなあだ名でお互いを呼び、本名は不明でした。草上飛は三井物産に対し、身代金として500万円のほか38式銃2丁,弾薬1,000発等を要求しました。

なおこの馬賊の頭目、草上飛ですが、1931年に満州事件が発生した後は,明確な抗日勢力となりました。草上飛の率いるグループは、著名な抗日馬賊である「老北風(張海天)」らと行動を共にしましたが、1932年の初頭には、日清戦争の激戦地としても知られている遼寧省営口市の田庄台の付近で、満州国警察や日本の関東軍との戦闘となり、死亡したとされます。

さて馬賊という存在は、現代を生きる我々からはなかなか想像しにくいところがあります。馬賊とは、一義的には盗賊団であり、同時にまた地域の自警団のような機能も持った、騎馬武装集団になります。現在の中国は非常に強力な中央集権国家という印象がありますので、そのイメージに引きずられがちですが、中国は明朝以降、特に清朝では、非常に分権的な、「究極の小さな政府」という状況が定着していました。

中央政府の影響力が末端に及ばない、特に農村は自分たちで何とかやりなさい、政府は多少税金を取り立てますが目立った干渉はしない一方、公的サービスも一切与えない、というような状況でした。よって地方では独立したアウトローな組織が生まれがちでした。それらが巨大化すると太平天国や義和団のようなものになります。当時の馬賊もそのような組織と捉えられます。そもそも東三省の実権を握った張作霖からして馬賊出身だったわけです。

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