【百年ニュース】1921(大正10)9月30日(金) 愛新覚羅溥儀の生母,幼蘭が自殺,享年37歳。1884年生。父は清末の有力者であった栄禄。醇親王載灃の正室となり,溥儀と溥傑の兄弟のほか三女をもうけた。当時紫禁城内で勢力を持っていた温靖皇貴妃(光緒帝側妃の瑾妃)と衝突,自殺した。
ラストエンペラー愛新覚羅溥儀(Puyi)の生母、幼蘭が自殺しました。享年は37歳でした。幼蘭は1884(光緒9)年に、清末の有力者であった栄禄の娘として生まれました。のち醇親王載灃の正室となり、溥儀と溥傑の兄弟のほか三女をもうけました。当時紫禁城内で勢力を持っていた温靖皇貴妃(光緒帝側妃の瑾妃)と衝突し、自殺したと言われています。
紫禁城の中に閉じ込められ外出を禁じられていた愛新覚羅溥儀(15)は、生母の葬儀に参列するため外出を許され、以後徐々に自らの意思を主張し、行動の自由を得るようになったと言われています。
この若い満州人皇帝(愛新覚羅溥儀)がいだいた紫禁城の城壁の彼方を見てみたい,という想いにくらべれば,アビニシアの幸福の谷から脱出したいと熱望し続けたラセラスでさえ,その比ではなかった。
庭の築山のいただきから,あるいは神武門上の楼閣から,ちらと外の世界を垣間見ただけで,彼の胸はときめくのである。(中略)しかしついに,葬儀のための特例としてではあるが,皇帝が紫禁城から出る機会が訪れた。
1921年9月30日に,彼の生母である醇親王妃(幼蘭*)が北府で亡くなった。北府ーーつまり北京の北部にある醇親王の邸で,皇帝自身の生まれたところである。10月のはじめ,彼は亡き母に別れの挨拶をするために,半日ほどそこにいることを許された。皇帝が紫禁城を出発するに先立って,神武門から北の景山を経て鼓楼に到るコースには,警官と民国の兵士がずらりと立ち並んだ。その道路は皇城あるいは皇帝の街として知られる城内から,後門(地安門)を経てタルタル・シティ,つまり内城とよばれる城外に通じている。
(中略)皇帝の自動車の前後には,随行の車が続いた。沿道は,かつて自分たちの君主であった少年を一目見ようとする群衆がわれがちに前に出ようとして,押すな押すなの騒ぎになった。
レジナルド・フレミング ジョンストン著, 入江曜子・春名徹訳『紫禁城の黄昏』岩波文庫,1989,158-159頁。〔*は引用者註〕
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