【百年ニュース】1921(大正10)8月20日(土) 伊藤燁子(柳原白蓮)著『白蓮自選歌集』発行。白蓮は宮崎龍介と逢瀬を重ねていたが,この頃京都で龍介の子(長男香織)を身籠った。白蓮は夫の伊藤伝右衛門のもとを出奔する決意を固め,龍介と共に家出決行のための周到な準備を開始した。
柳原白蓮が自身の詩を選んだ『白蓮自選歌集』を出版しました。白蓮の本名は燁子。由緒ある公家であります伯爵の柳原前光の次女です。1885年(明治18年)10月15日に柳原燁子として東京で誕生しました。この「燁」の字の由来は、父前光が次女誕生の知らせを当時の鹿鳴館で聞いたため、鹿鳴館の華やかな様子をイメージでして命名したそうです。この柳原燁子、柳原白蓮の父、前光の妹が、柳原愛子、すなわち大正天皇の生母です。白蓮から見ると叔母にあたるのが、柳原愛子、すなわち大正天皇の生母ですので、つまり白蓮と大正天皇はいとこ、ということになります。
13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入りますが、15歳のときに7歳年上の北小路資武と結婚、直後に15歳で長男を出産しますが離婚。1908(明治41)年に23歳で東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に編入しまして、寄宿舎生活を送ることとなります。そこでのちに翻訳者となる村岡花子と親交を深めた様子は、2014年のNHK連続テレビ小説『花子とアン』で描かれています。
1910(明治43)年に燁子は九州の炭坑王・伊藤伝右衛門と再婚します。しかし夫婦の結婚生活はすぐに実質的な破綻を迎えてしまい、福岡の伊藤家で孤独な生活のなか苦悩する燁子(あきこ)は短歌にその思いを乗せ発表するようになります。そこで「白蓮」の雅号を使うようになり、伊藤白蓮と呼ばれるようになりました。赤裸々な自身の生活を謳った歌集『踏絵』が評判となり、1919年(大正8年)12月に戯曲『指鬘外道』を雑誌『解放』に発表しますが、そのときに雑誌『解放』の主筆であった7歳年下の宮崎龍介と出会い、二人は恋に落ち、逢瀬を重ねるようになります。
そして100年前の今日ですが、伊藤白蓮が『白蓮自選歌集』発行、この頃白蓮は京都で龍介の子で、翌年生まれる長男の宮崎香織を身籠りました。白蓮は夫の伊藤伝右衛門のもとを出奔する決意を固め、龍介とともに家出決行の準備を開始したのが、この頃になります。
新人会にも何人かの女性はいたし,その他にも女性を見ていましたが,燁子のような女性に会ったのははじめてでした。個性というか自分のなかにひとつしっかりとしたものを持っている女性は,当時としては珍しいことでした。私は燁子のもつその個性に次第にひきつけられていくような気がしました。これは私が他の女性に対して持つことのなかった気持ちでした。不思議な女でした。かわいそうなものに対する同情,涙もろさを持つ反面,非常に強い自我を持っていました。反抗心といっていいものでしょう。感情面の弱さ,意思の強さ,この両面が燁子の歌や文章によくあらわれています。燁子の文学的な才能は,この相反するふたつの性格によってされに光をましているという気がしました。
(中略)さすがに私は考え込みました。これは深刻な問題です。下手をすれば姦通罪にひっかかって二人とも牢屋にぶちこまれる恐れだってある。それでもいいか。考えた末,私はふみ切りました。自分が今やっている政治運動,信奉する社会主義革命とは何か。ひとりで苦しみ,しいたげられた者を見つけたら,片っ端から助けてやるのが本当だ。燁子もしいたげられ,苦しんでいるひとりではないか。やれ,やれ,という勇猛心が次第に胸のなかで高まってきました。今から考えると,当時の私たちは一種の空想的社会主義者でした。ロシア革命のニュースに接し,日本でも明日にでも革命が起こりそうな気がしていました。現状を打破せよ,押さえつけるもの,支配階級への憎しみをかきたてろ,新人会などの集まりをやると,すぐに「革命は近づけり」という歌を歌い出す。いわば,ロマンティックな夢をみているような時期でした。
宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」『文芸春秋』1967年6月号
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