【百年ニュース】1921(大正10)3月21日(月) 田中義一陸相が小田原古稀庵の山県有朋を訪問。原敬首相と田中陸相が山県を支援することを伝えた。当時山県は宮中某重大事件により小田原で自ら謹慎し窮地に陥っていたが,原の支援メッセージで大いに勇気づけられ,また原を高く評価し,また頼るようになる。
従来田中義一陸相の古稀庵(山県有朋)訪問は3月19日(土)とされていた。原敬日記に「田中が19日訪問予定」と記したためだが,今回改めて新聞記事を確認すると,予定から2日遅れの21日(月)の訪問であったことが分かった。
箱根小田原方面が20日(日)暴風雨で混乱していたため予定が遅れたのかも知れない。
3月16日,原首相と田中陸相は「山県を今日の窮地より救い出す事必要」ということで合意し,すでに述べたように19日に田中が山県を訪問した。
この日,山県は原首相からの支援メッセージを受け取り,心を強くしたものと思われる。
3月27日,口の堅い私設秘書の松本への安心感から,山県は次のように原を称賛する発言をした。
「この先原の出方でどうなるか分らぬが,今度の議会のやり方は原は実に立派なものであった,原くらいの人間はただいまでは無いと思う,(中略)将来はかりに己の辞表が聞き届けらるるとして一平民になったなら,原と力を合わせてやりたいものである,原には経綸がない,抱負がないという人もあるが人格といい,やり口といい,実に立派なものだ。」
3月19日に田中陸相が「古稀庵」を訪れて以降,松本は20日,21日と「古稀庵」に足を運んでいるが,このように原を称賛する話は出ていない。
3月27日に議会が無事に閉会式を迎えたことも関係しないわけではないが,政党や政党政治を目の敵にしてきた山県が原を絶賛するようになるには,一週間ほどの気持ちの整理が必要であったのだろう。
この間に,山県の胸中を行き来していた思いはどんなものだったか。
自分は後継者育成にも励み,桂・寺内や清浦ら少なくない人材を育ててきたつもりであったが,結局は単なる能吏ばかりだった。
真に気骨があり,頼りになる者は育成できなかった。
田中陸相や田健治郎台湾総督もそれなりの人材だが,原ほどになれるのかどうか,確信が持てない。
後継者育成の点でも,結局自分は伊藤博文にはかなわなかった。
山県はしみじみ考えをめぐらし,そう納得するしかなかっただろう。
伊藤之雄『山県有朋ー愚直な権力者の生涯』文春新書,2009
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