【百年ニュース】1921(大正10)12月31日(土) 元駐日ロシア公使ロマン・ローゼンが死去。日露戦争開戦当時の駐日公使でポーツマス講和会議ではロシア全権代表セルゲイ・ウィッテとともに日本側と交渉に当たった。ロシア革命後はニューヨークで暮らした。12月14日晩に六番街でタクシーに轢かれ回復せず。
元駐日ロシア公使ロマン・ローゼン(Roman Romanovitch Rosen)が亡命先のニューヨークで交通事故により死去しました。享年は74歳でした。
ロマン・ローゼンは1847年2月24日、エストリャント県レーヴェリ(現在の エストニア・タリン)で、バルト・ドイツ系ロシア貴族の家系に生まれました。ロシア外務省に入省すると、外交官として各地の在外公館に赴任し、駐日公使・駐米公使を歴任しました。
ローゼンは日露戦争開戦当時の駐日公使であり、ポーツマス講和会議においてロシア全権代表セルゲイ・ウィッテとともに日本側と交渉に当たったことで知られています。日本赴任中は軽井沢の別荘にしばしば滞在したようで、一人娘エリザヴェータの様子を詩人の西條八十が書き残しています。
駐日公使としての赴任を終えロシアに帰国して以降は、司法大臣としてシベリアの司法制度を改革したほか、国家評議会議員として活躍しました。ローゼンは第一次世界大戦を前に、ロシア・フランス・イギリスの同盟関係がロシアをドイツとの戦争に巻き込み、仮にドイツが敗北したとしてもロシアを不利な立場にするであろうと予言していました。
1917年にロシア革命が勃発すると、ローゼンはアメリカに亡命し、ニューヨークで暮らしました。12月14日晩に六番街でタクシーに轢かれ体調を崩し、そのまま回復せずに死去しました。
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