【百年ニュース】1921(大正10)5月26日(木) 洋画家の本多錦吉郎が死去,享年70歳。1851(嘉永3)生まれの元広島藩士。藩校の洋学所(現,修道中学・高校)で洋式兵学を学んだあと上京,慶應義塾経由で工部省に。1874(明治7)川端玉章に入門し洋画家に転身。ほかにも風刺漫画家や造園家としても幅広く活動した。
洋画家の本多錦吉郎(ほんだ きんきちろう)が大田区大森の不入斗(いりやまず)にある自宅の死去しました。享年70歳でした。本多は1851(嘉永3)年生まれの元広島藩士。広島藩の藩校の洋学所(現在の修道中学校・修道高等学校)に入学し、洋式兵学を学びました。英語は当時洋学所の教授だった野村文夫から教わりました。この野村はのちにジャーナリストとして團團珍聞(まるまるちんぶん)という風刺雑誌を創刊し、また自由民権活動家としても活発に活動した人物です。
さて本多は廃藩置県で広島藩がなくなると上京し,慶應義塾で英語を学んだあと、1973(明治6)年に経由で工部省の測量学校に入学しましたが、そこの測量教師だったライマー=ジョーンズに画才を認められ、翌1874(明治7)年に川端玉章に入門、本格的に洋画家に転身しました。洋画のほかにも、風刺漫画や造園などでも活動し、マルチな才能を発揮しました。
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