【百年ニュース】1920(大正9)12月18日(土) 鄧小平(16)がフランス警察外事課に外国人登録をする。当時の名前は鄧希賢。勤工倹学フランス留学生として10月19日マルセイユに到着。工員,ボーイ,清掃夫など職を変えながら市立中学校で学んだ。1922年パリで中国少年共産党に入党。
鄧小平は1920年9月11日、上海からアンドレ・ルポン号の四等切符と100元をもち、フランス「勤工倹学」にむけて旅立ち、10月19日にマルセイユ港に着いた。
「勤工倹学」とは、労働にはげみ、倹約しつつ勉強することで、日本語の苦学にあたる。
フランスが特に選ばれた背景としては、第一次世界大戦中の労働力不足を補うため、中国人労働者が送り込まれていたこと、フランス革命の理念が知られていたこと、生活費や学費が、ヨーロッパ諸国の中では相対的に安かったことなどがあげられている。
鄧小平は自費留学生、(一緒にフランス留学した)叔父は賃費留学生であった。
鄧小平は仲間とくらべて2,3歳若く最年少しかも背が低かった。
マルセイユ港には華法(中国・フランス)教育界の係員が出迎えてくれた。
彼らはその晩のうちに三等車にのり、18時間かかってパリに着いた。
パリでは先輩の聶栄臻も出迎えてくれた。
華法教育会の事務所は、パリ郊外のラガレンヌ・コロンブにあった。
この地域は、パリで豆腐製造をはじめた李石曽以来、中国人にとって溜まり場となっており、彼らは先達を頼って学校を探し、就職口を探した。
華法教育会では百余名の学生をモンタルジ、フォンテンブロー、サン・テチアンヌ、バイユーなどの学校に割りあてた。
鄧小平は1920年10月22日、叔父を含む17名とともにノルマンディーにあるバイユー中学校に向かった。
21年3月までの五カ月間で、彼は米の代わりにパンやジャガイモを食べる生活になれた。
この時期の鄧小平についてわかっているのは、21年3月分の生活費だけである。
その生活費は244.5フランで、内訳は食費200フラン、クリーニング7フラン、寝具借用費7フラン、管理費12フラン、雑費18.65フランであった。
矢吹晋『鄧小平』講談社現代新書,1993,29頁
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