【百年ニュース】1921(大正10)7月26日(火) シベリア派遣中の第11師団(善通寺)参謀長,三輪秀一大佐らが駐屯地ニコリスクから北部の都市スパスカヤに移動中,マンゾフカ北方の橋梁でパルチザンに襲われ戦死。当時の原敬内閣はシベリア撤兵の具体的条件を現地のソ連傀儡国家,極東共和国と交渉中だった。
シベリア派遣中であった第11師団(善通寺)の参謀長、三輪秀一大佐らが駐屯地ニコリスクから北部の都市スパスカヤに移動中、マンゾフカ北方の橋梁でパルチザンに襲われ戦死しました。当時の原敬内閣はシベリア撤兵の具体的条件を現地のソ連傀儡国家,極東共和国と交渉中でした。
戦死した三輪秀一参謀長は同日付で少将に昇進。義父の仁田原重行大将は日露戦争中の歩兵第7旅団長、のち近衛師団長、東京衛戍総督を歴任、軍事参議官となりましたが、2週間前の7月15日に予備役編入されたばかりでした。
第11師団は2月に師団長の斎藤季治郎中将が病死しましたが、今回の襲撃で師団長に続き参謀長である三輪をも失いました。
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