【百年ニュース】1921(大正10)12月14日(水) ハンガリーとオーストリア国境の街ショプロン(ドイツ名エーデンブルク)で帰属問う住民投票。65%がハンガリーに投票。1989年8月にはこの街経由し旧東ドイツ市民が大量に西側に抜ける「ピクニック」舞台に。ベルリンの壁崩壊を誘発。
ハンガリーとオーストリア国境の街ショプロン(ドイツ名エーデンブルク)の帰属を問う住民投票が行われました。65%がハンガリーに投票し、オーストリアではなくハンガリーに編入されました。
第一次世界大戦以前のショプロンはオーストリア=ハンガリー帝国領でしたが、帝国崩壊後に結ばれたサン=ジェルマン条約およびトリアノン条約によって、町の帰属は住民投票で決められることとまっていました。
街の帰属が決定された12月14日は、現在でもショプロンの街の記念日として祝われているそうです。
さてこの国境の街ショプロンは、1989年8月に歴史上の重要な役割を果たします。ショプロンを経由して旧東ドイツ市民が大量に西側に抜ける「ピクニック」の舞台となりました。
当時は同じ東側陣営の東ドイツとハンガリーとの移動は自由に許されていました。東ドイツ市民を支援する西ドイツは、多くの東ドイツ市民をチェコスロバキア経由でハンガリーに入り、国境の街ショプロンに来るよう呼びかけました。
そしてショプロンから中立国オーストリアへと脱出させ、西ドイツへと迎え入れたのです。この「ピクニック」により、東西冷戦の鉄のカーテンは実質上機能を失い、同年11月のベルリンの壁崩壊を誘発しました。
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