父のこと6 東寺が呼んでいる
小学校時代、僕の学業成績はイマイチでありました。2歳下の弟と同い年のいとこはとても成績が良く、通知表の時期になると、ちょっと気まずい思いをしていたのですが、まだごまかしがききました。学校の先生の、何が根拠かわからない「お前は、やればできるんだから頑張れ」という言葉を都合よく信じ、「まあ、そのうち頑張るさ」とうそぶいて遊び呆けていたのですが、中学になると、中間テスト期末テストという好ましからぬ儀式が始まり、自分のできなさ加減が明白になってしまいました。主要科目の学年順位などが知らされるようになって、はったりが効かなくなってしまったのです。
通っていたのは公立の中学校で、成績は、中から中の下へ、それから・・・という具合に、順調に右肩下がりに落ちていきました。ちなみに、「お前は、やればできるんだから頑張れ」の先生は、後から知ったのですが、誰にでも同じことを言っていたそうです。
ある日、僕は夜中に尿意を催して目が覚め、みんなを起こさないようにそっとトイレに向かいました。するとリビングからひそひそ声が聞こえてきます。
母の声がしました。
最初の方はよく聞こえなかったのですが、
「ヨシユキはダメかもね」
という言葉は、はっきり聞こえました。
僕は、足を止めました。しかし、尿意は消えない・・・。
ちょっとした沈黙の後、
父がいつもの低いゆっくりとした調子で
「まあ、長い目で見てやれよ」と言うのです。
そこで母が気配を感じたのか、「誰かいるの?」とドア越しに聞いてきました。僕は、さっきの話は聞こえていなかったと言う体で、「あっ、ちょっとトイレ、漏れちゃうよ〜」と個室にバタバタと駆け込みました。
僕は、その時、自分がダメであることをはっきりと自覚したのです。
母が僕を諦めるのも、仕方のないことでした。僕のやらかしたよろしくない行いのおかげで何度も学校に呼び出されていましたし。
母が危機感を感じ、僕に大学生の家庭教師を雇いました。そして、その家庭教師のSさんがよかったのです。ガツガツ勉強させるのではなく、勉強のやり方を教えてくれました。数学はまずは例題をやって理解すること、英語は声を出して読むこと、国語はなんでもいいから本を読むこと・・・と言われました。あとは、大学とはどんなところかとか、専門の建築の話とか、小説の話とか、世界情勢の話や・・・女の子の話をしてくれました。そして、僕が勉強に飽きると、時々、居酒屋に連れて行ってくれました。
数学で例題だけ完璧に理解するというやり方は、とても助かりました。僕はどうも、原理原則が理解できないと前に進めないのです。やり方だけ覚えて問題を解きまくるというのができない。例えば、小学生のときには、分数の割り算に躓きました。計算のやり方は、分かりますが、一個のケーキを3分の1で割ると、なんで3個になるのか理解できず、先生に質問し続けたら、「お前は素直さが足りない!なんで、みんなと同じようにできないんだ!」と変な怒られ方をしました。結局1➗1/3という問題は、「1/3のケーキを何個集めたら、一つのケーキになるのかという問いなのだ」と自分で考えてはじめて前に進めたのです。僕みたいなタイプには、例題だけ徹底的にという勉強方はピッタリだったのです。
英語も単語を丸暗記するのではなく、声を出して読めばいいのだから、眠くなりませんでした。ただ、教科書の文章が面白くない。
高校のとき、本屋で「官能小説で、英語長文読解」という内容の参考書を見つけ、「これだ!」と思って買ったのですが、結局、和訳を読むだけで終わってしまいましたが・・・。
そして、小説を読むことにしました。僕は、それまでまともに本を読んだことがありませんでした。愛読書は少年マガジンで、最も感動したのは「あしたのジョー」です。
Sさんから何でもいいから活字の文章を読んだらいいと言われたので、推理小説みたいなのがいいと思い、最初に読んだのがエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」です。そこで、僕の読書の歴史が始まります。コナン・ドイル、アガサ・クリスティと進んだところで、ちょいと純文学とやらを読んでみようかと思いました。
家には、両親が揃えたたくさんの本がありました。夏目漱石や芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫や谷崎潤一郎などの日本文学の全集もありましたし、海外の作家の本や戯曲の本もたくさん本棚に並んでいました。芥川は短編が多いので読みやすく、最初の頃からよく読みました。そのうち長いものも読むようになり、高校になって、谷崎潤一郎を読んだ時の感想は、・・・、エロい!思春期の健全な中高生だった僕は、純文学いいじゃないか!と感激したものです。さらに、マルキ・ド・サドという人の書いた「悪徳の榮え」なんていう題名だけでもそそられるものもありました。太宰治、安倍公房、北杜夫、坂口安吾、開高健、松本清張、三島由紀夫、バルザック、ヘミングウェイ、カポーティ、アジモフ・・・ジャンルも関係なく手当たり次第に読みました。やがて小説だけではなく、エッセイや科学や歴史や心理学関係の本も読むようになりました。僕は、本の面白さを知り、本の虫になったのです。
そんなことをしていたら、成績が急に上がり出しました。僕にとっては、本を読むことが最大のキーポイントだったようです。数学の証明問題も英語の長文読解も、結局文章の読解力を鍛えることが、僕にとっては重要だったのです。その結果、中学3年では、これまでお見かけしたことのない成績を取るようになり、高校は、ちょっと前までは全く縁がないと思っていた学校に進学しました。
父から、勉強しろとか言われたことはありませんし、成績についてもノータッチでした。父が言っていた「長い目で見てやれよ」は、何も成績のことではなく、人としての成長という意味で言っていたのだと思います。人としての成長は、誇れるものはありませんでしたが、とりあえず学業成績はそれなりになりました。
大学は、一人暮らしにあこがれ、第一志望は京都の大学にしました。受験の時は、旅行のガイドブックでホテルを選び予約しました。受験とは言え、ホテルにひとりで泊まるという経験は初めてのことで、とてもワクワクするものでした。
受験生パックみたいなものがあって、夕食券と朝食券がわたされ、そこには「がんばれ受験生」みたいなことが書いてありました。
「さすがに受験前日にビールはよくないよなぁ」などと、その年齢の青年にふさわしい悩みをかかえながら、ホテルのレストランに行きました。そこで、僕は、異様な光景を目にするのです。
レストランの中は、母と子の2人組であふれかえっていたのです。子の方は、ほぼ男子で、母と子は額をつきあわせるようにしながら、黙々と食事をしていました。
「あー、かわいそうに」僕は思いました。「こんなに自立心のない連中は、受験当日に緊張して自分の力が出せず、残念ながら不合格となるのだろう」などと考えながら、僕はひとりで食事をしました。ちなみに、ビールは、グッと我慢で飲みませんでした。
レストランでの食事を終え、自分の部屋にもどり、テレビをつけながら参考書をパラパラとめくっていたとき、電話がかかってきました。
母でした。心配して電話をかけてきたのでしょうけれど、僕は、せっかくのひとりの時間をじゃまされたくないので、生返事で、さっさと電話を切ろうと思ったのです。ところが、母が「お父さんも、少し話したいって言うのよ」と言うのです。やれやれと思いました。仕方がない、僕は、あきらめて、子守りならぬ親守りをすることにしたのです。
父は、受験という非定常状態であるのにもかかわらず、いつもののんびりした声で「なぁ、ヨシユキ」と話しかけてくるのです。父は続けて、「駅前に東寺という寺があるだろう?」と、受験とは全く関係ないことを話し始めました。観光じゃないんだぞって思いながら、僕は、「あぁ、知っているよ」と答えました。
そのあと父が放った一言を、僕は一生忘れないでしょう。
「東寺の横になぁ、デラックス東寺といういいストリップ小屋があるんだ。ヨシユキ、景気づけに、行ってみたらどうだ?」
父のその一言で、僕の受験モードは吹っ飛んでしまいました。英数国・・・ストリップ、物理化学日本史・・・ストリップ。僕の脳内メーカーには、ストリップという「呪いの言葉」が埋め込まれてしまいました。
僕がその大学に落ちたのは、「呪いの言葉」のせいに違いありません!・・・ということにしております。
それとも、父のアドバイスを聞かずに「デラックス東寺」に行かなかったことが敗因かもしれませんね。
※文中、不適切な表現がありますが、1970年代という時代を表しているため、そのままにしております。ご容赦ください。
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