「日ソ戦争」 麻田雅文 著 中公新書
一九四五年八月八日、ソ連は日本へ宣戦布告しました。ソ連と日本の戦争「日ソ戦争」は、日本がポツダム宣言を受け入れ降伏した後も続きました。
半月たらずの戦争でしたが、日ソ戦争に参加した兵士は、ソ連軍がおよそ一八五万人、日本軍も一〇〇万人を超える(p.249)という大規模な戦争になりました。その残した爪痕はとても大きいのです。
日本人の民間人は約二四万五〇〇〇人が命を落とした(p.250)と言われています。一方、 ソ連民間人死者は確認されていないとのことです。
これだけの民間人の死者が出たのは、ソ連軍が占領した土地で蛮行の限りを尽くしたためですが、その要因を作ったのは日本軍部だと言えるでしょう。
もちろん勇敢に戦った軍人たちもたくさんいましたが、多くの戦地で、ソ連が宣戦布告してから最初に逃げ出したのは軍人と軍人の家族でした。
例えば、
「もっとも、牡丹江から真っ先に避難したのは軍人とその家族だ。(p.117)」
「八月九日のチチハル駅では「将校同士、撲り合いまで演じるしまつ」。「避難出来たのは高級将校の家族だけ」だった(『匪賊と共に』)。(p.119)」
この事実は、心に留めておきたいと思います。将校は最初に逃げるのです。
日本は、情報戦でも負けていました。「一九四五年の時点で日本側は誰もソ連との開戦を望んでいなかった。むしろ、戦争終結の仲介をソ連に頼んでいた(p.4)」のです。
一方、ソ連は、早い段階から、時期がくれば日本に侵攻して領土を得ようと考えていました。
スターリンは、ローズベルトに対日戦参戦を早くから仄めかしています。
例えば、
「一九四三年一一月二八日、イランの首都テヘランで、米英ソの首脳会談が開かれた。いわゆるテヘラン会談である。ここでヨシフ・スターリン人民委員会議議長は「この戦線〔対日戦〕に友とともに加わるのは、ドイツが崩壊した時だろう」と述べて、ローズヴェルトに参戦をほのめかした。(p.16)」
そして、スターリンは、まずヨーロッパの戦争を終結させるまで時間を稼ぎ、日本軍を凌駕する大軍を投入できるよう、兵站やインフラを入念に準備した(p.264)なのだそうです。
兵は詭道なりです。裏をかかれた方が、酷い目に遭います。戦時に確証バイアスは禁物なのです。