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「天才と異才の日本科学史」 後藤秀機 著 角川ソフィア文庫

明治維新・開国からたった20年で、北里柴三郎は、日本の細菌学を世界の最先端に引き上げました。「一九〇一年、第一回ノーベル賞がベーリングに決まる。受賞理由は「ジフテリアに対する血清療法の研究」となっていた。ジフテリアの仕事なら北里とベーリングは同格だった。それ以前の業績を考えれば、北里の方がずっと上(p.22)」だったのです。


また、物理学でも劇的な進展がありました。

長岡半太郎は、原子が土星のようなものと考え、電子が土星の輪のように陽子の周りを廻っていると考えました。彼の理論は、後に実験で証明され、当時の原子物理学上の最大の問題を解決したのです。日本の物理学は維新以来三七年、原子物理学で世界レベルに達した(p.61)のです。


日本は、たった、40年余りで、世界の科学のトップクラスに躍り出たのです。その流れは、その後、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎、南部陽一郎、益川敏英、小林誠へとつながっていきます。益川は、「自分は南部先生を長らく仰ぎみてきた。ノーベル賞そのものより、神様のような南部先生と一緒に受賞することが夢のようです(p.304)」と、涙ぐんだのだそうです。そこには、明治維新以降続いてきた科学の一筋の流れを感じます。


しかし、日本の科学には、もう一つの暗い流れがあります。

帝大は、あっという間に権威化し、帝大以外を下に見るようになりました。

帝大以外からの提案や研究は、帝大の方向性と異なれば、徹底的に批判されることになります。

例えば、明治時代日本人は脚気により死ぬ人が多く、その原因が白米依存の食生活であることは、多くの学者が主張し、データもそろっていました。


日露戦争時、海軍軍医の高木兼寛は、イギリスに脚気などないことが気になり、「海軍の航海中の食事をイギリス式のパン食に切り替えてみたところ、とたんに脚気がなくなる(p.34)」という事実をふまえ、陸軍に提案しますが、陸軍軍医の森鴎外が、高木の忠告をはねつけます。その結果、「旅順戦での戦死者が一万五四〇〇名なのに対し、日露戦争の間、二万七八〇〇名が脚気によって病死(p.36)」と言われています。


日本は、権威の名の下に、傑出した人の足を引っ張る傾向があるのでしょう。

また、残念ながら、同調圧力の中で上司の命令に盲目的に従い非倫理的な行為までしてしまうと言うことがありました。

例えば、京大出身の陸軍軍医石井四郎作った秘密部隊七三一部隊などが、その悪例です。

「中国人やロシア人スパイに色々な細菌や毒物を試した(p.107)」

「捕虜に腸チフス、ペスト、コレラなど、伝染病の病原体を感染させてから死亡するまでを記録した(p.108)」

「水だけでどれくらい生き延びられるか実験した。「マルタ」(中国人捕虜をこう呼んでいた)は水道水だと四五日生きたが、ミネラルを含まない蒸留水では三三日で死んだ(p.112)」

などの、決してすべきではないことをしてしまったのです。

そして、「アメリカに標本を渡すのと引き換えに日本の関係者は全員罪をまぬがれる(p.119)」ということになり、彼らがやったことは、闇に葬られてしまいました。


日本の科学者は優秀だと思います。自由に研究できる環境を整えれば、自然にすごい成果を出すでしょう。

国立大学を独立法人化して予算を削り、教員同士を競争させることにより、多くの研究者が短期成果を求めるようになり、基礎研究より社会のニーズに見合う研究を奨励してしまった現在、本来の日本の科学の力が発揮しにくくなってしまっているのかもしれません。




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