「奇妙な死刑囚」 アンソニー・レイ・ヒントン著 海と月社
1985年といえば、マイケル・ジャクソンやプリンスがヒット曲を連発していた頃です。人種差別なんて過去のことなのだろうと、日本でサラリーマンをしていた僕は感じていました。
でも、アメリカのアラバマ州ではそうではなかったのです。1985年に起きた3件の強盗殺人事件の容疑者として、アンソニー・レイ・ヒントンは逮捕されます。アリバイがあり、嘘発見器でも嘘をついていないと言う結果が出て、銃弾はヒントン家の拳銃から発射されたものではないと言う鑑定がなされているにも関わらず、レイは死刑の判決を受けます。アリバイは無視され、嘘発見器の結果は証拠として採用されず、銃弾の検査は、検査官の技量不足ということで、認められませんでした。こんな目にあったのは、レイが黒人だったからです。
レイが起訴されたのが1985年8月2日、無罪が証明され釈放されたのが2015年4月3日、30年の年月が経っています。
その間、毎週必ず面会に来た友人のレスターは、何よりもレイの心の支えになりました。レスターに連れられて同じく毎週面会に来たレイの母親は途中で亡くなってしまいました。そして、15年目からレイの弁護士となったブライアン・スティーブンソンの決して諦めない姿勢と公正さと誠実さが、レイの心が折れるのを防ぎました。
そして、レイの妄想力も助けになりました。想像(妄想?)の中でレイはハル・ベリーやサンドラ・ブロックと恋に落ち結婚し、ヤンキースの3塁手として活躍し、テニス選手としてウィンブルドンで優勝します。また、彼は死刑囚監房で読書会を主催するなどの企画力と実行力がありました。イメージの力(妄想力)と行動力は、彼を救う重要な要素となりました。
死刑囚監房内の死刑囚たちは、レイとの関わり合いの中で人の心を取り戻していきます。KKKの幹部を父親にもち黒人青年に対してリンチ殺人をしたヘンリーは、自分が教えられていたことが間違いだったと言うことを知り、レイを友達として面会に来た父親に紹介しますが、ヘンリーの父親はレイと握手をしようとはしませんでした。やがて、ヘンリーに対し刑が執行されます。悲しいエピソードです。
レイ・ヒントンは僕と同い年です。29歳で逮捕され、釈放されたのが59歳。29歳の時、僕は石油会社で新たな部署に移動し、やっと仕事にのってきた頃です。59歳といえば、そろそろ大学院のコアファカルティを引退しようと考えた頃です。レイは同じ時期、死刑囚監房で過ごし54人の死刑囚を見送ります。あまりにも長い時間です。