「他者の靴を履く」 ブレディみかこ 著 文春文庫
あるカウンセラー(Aさん)が、「私は、クライアントさんの言うことは、全て正しいという立場をとります」と言うのを聞きました。理由は、「カウンセラーは、クライアントに対して常に共感的であるべきだから」とのことでした。
また、別のカウンセラー(Bさん)は、「共感は、カウンセリングの基礎です」と言います。
僕は、AさんともBさんとも違う意見を持ちます。僕は、クライアントに限らず、誰かに常に共感し続けることなんてできません。また、共感の原語であるエンパシーは、非常に深い意味があり、とても「基礎」という言葉で表現できるものではなく、ずっと取り組んでいくべきものだと思っています。
例えば、殺人者がクライアントの場合、どうでしょう?差別主義者だったらどうでしょう?ハラスメント管理職だったら?虐待する親だったら?
カウンセラーは、クライアントに対し、はっきりとNoと言うこともあります。殺人も差別的言動もハラスメントも虐待も、その行為は、容認できるものではありません。
この本にも書かれているように
「その人に共感・共鳴しろという目標を掲げて他者の靴を履くわけではないから、その人の立場を想像してみたら(エンパシーを働かせてみたら)よけいに嫌いになったということも十分にあり得る。(p.257)」
なのは、自然なことです。
でも、その人が罪を犯すに至る生育歴や家族関係などの中で、彼らが感じた苦悩や悲しみや孤独感や、時には刹那的な幸福感などに共感することはありえます。
カウンセリングのプロセスの多くは、「共感(エンパシー)」のポイントを見つけることに費やされます。
そのためには、カウンセラーは、少なくともカウンセリングセッション中は、自分の中に矛盾がないように、すなわち、自己一致するようにつとめなければならないと考えます。
セッション中、なにものにもしばられず、自分自身でそこにいるわけです。そのとき、カウンセラーは、アナーキーな存在になっていると言ってもいいでしょう。
著者が言うように、「エンパシーを働かせる側に、わたしはわたしであって、わたし自身を生きるというアナーキーな軸が入っていれば、ニーチェの言った「自己の喪失」は起きないので、どんな考えでも尊ぶ気にはならないだろう。(p.256)」ということなのです。
カウンセラーには、全て自分自身で決断するという瞬間があるわけで、その決断のために、猛抗議を受けるかもしれないし、バッシングされるかもしれないし、場合によっては職を失うかもしれないけれど、結果は引き受けるという覚悟をしなければならない時があるのです。
僕の理解では、これが、著者の言うアナーキック・エンパシーの概念だと考えます。