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「let it go」と「let it be」
最初にちょっと怖い話をします。
「富士山総本部道場が開設されて1カ月半ほど経った1988年9月下旬のことだった。在家の信者として修行に参加していた男性が、突然、道場のなかを走り回り、大声を上げて叫び出すという出来事が起こる。それに対して出家信者が水をかけたり、顔面を浴槽の水につけたりした。もちろんそれは、在家信者を正気に戻すための試みだったわけだが、結果的に信者は死亡してしまった。(日本の10大カルトp.71)」
これは、かつてオウム真理教であった出来事です。オウムでは、寝ずにマントラを唱えるなど、精神的肉体的限界まで人間を追いこむようなハードなワークをしていましたので、この時も、過酷なワークをしていたのでしょう。
しかし、このような激しい修行は、さまざまな宗教で行われてきたのです。
例えば、「九日間にわたって飲まず、食べず、寝ない」という、非常に過酷な修行を行う伝統的宗教もあります。
激しい修行をすると、突然叫び出したり、激しい動き始めたり、大声で叫んだりする人が出てきます。
伝統的な宗教では、そうした状況に対応できる高僧たちがいるわけですが、おそらくオウム真理教の幹部たちは、エマージェンシー状態に対応するスキルがなかったのでしょう。
激しい修行により、それまで抑圧していた感情が一気に噴き出すことがあります。例えば、親からの長期的な精神的コントロールにより抑圧されてた性的エネルギーが、修行を経て突然解放された場合、暴力的になったり、性依存になったりすることがあるのです。
ですから、精神的肉体的限界まで人間を追いこむような過酷な修行においては、そうしたことが起こらないように進行することができ、万が一、参加者の中で暴力的になったり、性依存になったりした人が出てきたときに適切に対応できる熟練した指導者が絶対必要なのです。
また、そうした修行に参加するには、参加者の明確な意志が必要です。「誰かに言われたから」、「やることに決まっているから」という受動的な動機で参加すべきものではありません。
過酷な宗教的修行のような過激なワークほどではなくても、妥協を許さないようなグループワークをする場合においても、同様に1)熟練したファシリテーターがいる、2)参加者は自分の意志で参加する」の2条件が必要だと考えます。そして、グループワークを行う場合、もう一つ条件を加えたいと思います。それは、3)ワークに参加しない自由が許される ということです。「これは、今の自分にはキツすぎる」と思われるワークには参加しないという自由が許されることです。そのようなグループワークでは、自分のペースで参加することができます。
いわゆる「ハードなワーク」で、参加者のバランスが崩れてしまい暴力が止まらなくなった、依存から抜け出せなくなったなどの問題が起こった場合、1)、2)、3)のいずれかのあるいは、幾つかの条件が満たされていなかったのではないかと考えます。
一部から「ハードすぎる」と批判された吉福伸逸さんのワークショップは、少なくとも2000年以降については、1)、2)、3)の条件が満たされていました。僕は2004年から2013年に吉福さんが亡くなるまで、TENというグループで吉福さんのワークを主催し、ワークショップでアシスタントをしていたのですが、参加者のバランスが崩れてしまい暴力が止まらなくなった、依存から抜け出せなくなったという事例はありませんでした。
しかし、どんなに注意しても慎重にワークを進めていっても、参加者の中に精神的バランスを崩すことは起こりえます。そうした場合の対処法として、タイで仏教の修行を積んだ経験もあるアメリカのセラピストのジャック・コーンフィールドは、次のように語っています。
「強い欲求、恐れ、怒りといった困難なエネルギーが生じたときの最初の扱い方は、ただそれを「手放す」(let it go)というものです。もし手放すことができなければ、「あるがままにしておく」(let it be)ことです。・・ジャック・コーンフィールド (霊的修行における障害と変転 スピリチュアルエマージェンシー P.205)」
「let it go」は、手放すことです。つまり困難なエネルギーに翻弄されない自分になると言うことです。
「let it be」は、あるがまま、そのままにしておくということです。
例えば、吉福さんの「どけのワーク」で、心から「どけ!」と言った時に湧き出てきた怒りなどの感情をしっかりも見つめることです。湧き出てきた感情は過去に表現したいけど表現させてもらえなかったものかもしれません。そうしたunfinished buisiness(完結していない仕事) が、感情を表現し見つめることによりfinished(完結)の状態になることが「let it go」です。
finished(完結)の状態にならなくても、心配は要りません。finished(完結)の状態になっていない状況を、良い悪い、優劣、好悪などで判断しないことです。ただ、unfinished (未完結)の状態を無批判に俯瞰的に見つめ、そのままにしておくことが「let it be」です。「見つめている」、つまり、自分のunfinished なテーマから目を逸らさらなければ、その状況は、次第に変化していくものです。自分のテーマを認識し始めたとき、その人の変容のプロセスは始まっているのです。始まったプロセスを「let it be」で見つめていると、いつか「プロセスが、その人にとって最も良い場所に連れていく(吉服伸逸の言葉)」のです。
吉福さんは、ワークの中で、コーンフィールドの言う、「let it go」「let it be」を共に実践していたのではないかと思います。
変容には、自分のテーマへの直面が必要です。セラピーには、共感・傾聴だけではなく、直面化のプロセスが必要です。どんなにソフトなアプローチでも、どこかに直面化の場面があるはずです。セラピーは、癒されて幸せな気分になる場面ばかりではなく、自分の暗部と直面して唖然とする場面もあるのです。セラピーは、どこかに自己成長のプロセスを含むものであり、そこには産みの苦しみは必然的に起こり得るのです。
不用意なハードなアプローチは、参加者の精神的バランスを崩す場合もあるかもしれませんが、「共感・傾聴」だけのソフトなアプローチでは、変容は起こりません。実は、そこで行われているのは、真の意味での「共感・傾聴」ではないからです。大きく頷きながら「わかります」というのは表面的な「傾聴・共感」です。変容のプロセスの中で必然的に通る直面化の場面の混乱・苦悩・悲嘆・絶望などを傾聴し共感できてこそ、セラピーと言えるでしょう。
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