「テクニックではない・・繊細なアプローチ その3」
ルサとのセッションの中では、僕の小学生以降の生育歴について詳しく話をすることがありました。僕は、小学校2年で靴泥棒をするだけではなく、盗んだ靴を焼却炉で焼いた問題児とされていましたから、小学校は居心地の良いものではありませんでした。先生たちは、僕が、再びよからぬことをするのではないかという目で見ていたと思います。実際、僕は何かと教員たちから注意を受け、母も肩身の狭い思いをしたようです。
母は、教育熱心な人でした。僕と弟を理系のコースに進ませたかったようです。母は1933年生まれ、すなわち戦前生まれです。母はよく、理系の人たちは、招集されなかったと言っていました。文系の人たちは学生も含めて何人も招集され、死んでしまったのだそうです。それを考えると母が僕らを理系のコースに進ませようとしたことは理解できないことではありません。
しかし、僕は、そうした母の期待には答えられそうにありませんでした。僕の成績は、悲惨なものでした。それに対して、二歳下の弟は出来がいいことで有名な存在だったし、同い年のいとこは、やがて一流大学に進む才媛だったのです。母が、僕の成績を弟やいとこの成績と比較するということはありませんでしたが、僕は、彼らに対し、勝手に劣等感を抱いていました。
母は、「○○になれるといいわね」「○○みたいになりたいでしょう?」とよく言っていました。「○○」は、知的な職業だったり、有能な人の名前だったりしました。母は、そういう言い方で、僕を励まそうとしたのでしょう。しかし、それは、僕の劣等感を強化することにしかなりませんでした。
前回お伝えした「将来は、自分の好きなことをやりなさい」と言っていた母が、僕が「漫才師になろうかな」と言った途端怒って泣き出してしまったエピソードは、相矛盾するメッセージをほぼ同時に発するダブルバインドと呼ばれるコントロールです。こうした一連の母のコントロールは、長期連続的な微妙な精神的介入とも言えるでしょう。
また、よく「○○さんが、あなたのことを『やればできる子だ』と言っていたわよ」と聞かされたものです。しかし、そんなことを言われても嬉しくはありませんでした。「やればできる」ということは、要は、「今は、できていない」ということをわかっていたからです。
母のこのような強迫的とも言えるコントロール傾向には理由があることは、大学院での勉強やルサとのセッションの中で理解できました。
先の戦争が敗戦という形で終わったとき、小学校六年生だった母は、真面目な性格なので、おそらくそれまで大人の言うことを素直に信じていたのだろうと思います。連合軍は憎むべき敵であり、日本は正義の戦いをしていたことを疑うことはなかったでしょう。ところが、敗戦になった途端、大人たちは変貌したのです。鬼畜米英と言っていたのに、急に親米になり、「これからは民主主義だ」の大合唱になりました。
母は混乱したと思います。一貫性を持った自己感を、ある期間築くことができなかったのではないかと想像します。そして、それは母と母の同世代の人たちを不安にさせたのではないかと思います。
また、戦後の混乱期、母の実家の事業が大打撃を受け、その影響で、成績が良かったにも関わらず、母は大学に進学することができなかったということもありました。母の弟や妹は、事業の業績が回復したので、大学に進学しています。母は、自分の成し得なかった夢を息子たちに託したのだろうと思うのです。それがいきすぎて、自分の希望と息子たちの希望を混同してしまったのでしょう。
母と同じような精神状態になる人は、戦争や災害などによって夢を絶たれた場合に、しばしばみられます。
子供が自分と同じ感覚・感情・思考を持っていると思い込み、絶たれてしまった夢を無意識のうちに子供に実現してもらおうとする心理的傾向は、「ナルシシスティク・エクステンション(自己愛的拡張)」と呼ばれます。親が、無意識のうちに、子供を、自分の延長、ないしは、自分の一部とみなしてしまうのです。
さらに、母の場合、戦時中に姉を亡くしています。また、間接的にでも知っている人が何人も戦地で亡くなっているのです。そのためだと思いますが、母は、息子たちには、最も戦死する可能性の少ないと思われる理系エリートになることを望んだのでしょう。私には、母の欲求がうっとうしかったのですが、社会人になった頃から、母も戦争の被害者だったのだと理解できるようになっていきました。母は、戦争トラウマにより、戦後においても不安で仕方がなかったのです。そのため、安全を確保することが彼女の最優先すべき行動原理になっていきました。
母のことをルサに話しているとき、思い出したことがありました。
中学一年の頃のことです。夜中に起きてしまった時、両親の寝室から話し声が聞こえてきたのです。母の声で、「・・・は、成績もいいし先生たちからの評判もいいし大丈夫だと思うけど、善之はダメかもね」と言うのです。最初の方はよく聞こえなかったのですが、おそらく弟のことを話していたのでしょう。
常日頃、「あなたは、やればできる子よ」と言っていたのは、本心ではなかったのだと、その時、僕は確信しました。
その後、父のボソッとした声が聞こえました。それは、「長い目で見てやれよ」という言葉だったのです。
ルサは、じっと僕の話を聞いていました。そして、「お父さんの『長い目で見てやれよ』と言う言葉に対しては、どう思ったの?」と僕に尋ねました。僕は、当時を思い出し、「長い目で見たって、どうせダメだ」と思いつつも、父の言葉には、少し救われたとルサに伝えました。
「でも、あなたは、やがてエンジニアになったのでしょう?そして、今大学院で勉強している。何か勉強に目覚めるきっかけがあったの?」とルサ。
確かにきっかけはありました。
中学に入って、僕の成績は、最初は徐々に、やがて坂を転がるように落ちていきました。僕の通っていた中学は都内の公立の学校でしたが、教育熱心な親も多く、塾に通ったり家庭教師に勉強を教えてもらったりしている生徒もいました。中学二年の一学期は、目も当てられない成績でした。英数国の主要科目の期末試験の成績が、百三十人ほどの生徒の中で八十四番だったのです。「八十四番」という順位は、はっきりと覚えています。自分でも、「これは、来るところまで来てしまった」と思いました。
母は、なんとかしなければと思ったのでしょう、どこから見つけてきたのか、T大の工学部の学生を家庭教師に雇ったのです。夏休みに入って初めて会ったSさんというその家庭教師は、明るい印象の人でし。ただ、僕は、不貞腐れていたのです。家庭教師をつけたって、どうせ勉強なんてできるようになるわけがない。僕は、その頃勉強を諦め、漫画ばかり読んでいたのです。
いつものように母は、「善之は、本当は素直で良い子なんです。やればできる子なんです」とSさんに説明していましたが、「良い子」「やればできる子」という言葉が、私をますますシラけさせました。僕は、反抗的な態度で、Sさんに接していました。
何回目かの家庭教師の日、僕が全く勉強をしていないことを知ったSさんは、僕に、「勉強やる気無いのか?」と聞きました。僕は、「あぁ、ここでお説教が始まるのだな」と覚悟し、覚悟したからには、ひらきなおるしかなく、「ないです」と、短く答えました。
怒鳴られるかもしれない、でもそんなことは日常茶飯事だから、たいしたことはないと自分に言い聞かせていたのですが、Sさんは何も言いません。
Sさんと目があったとき、Sさんは怒っていませんでした。逆に、笑っているのです。おや?なんか様子が違うぞと思っていたら、「そうか。じゃあ、勉強はやめよう。そのかわり、焼きとりでも食いに行くか?」と言うのです。
僕は、わけが分からず、「焼きとりですか?」と聞き返しました。Sさんは、「そう、焼きとりだ。駅前にあるだろ?あそこ、美味しそうじゃないか?」と言いながら、カバンに筆記用具をしまい、帰る準備をして、母に、「今日は、これでおしまいです。善之くんを、ちょっとお借りします」と言って、僕を外に連れ出しました。母は、あわてていましたが、思考停止状態になっていたので、僕たちをとめることはできませんでした。
Sさんに連れられて、僕は初めて焼きとり屋に入って、カウンターに座りました。僕は、それまで、焼きとりと言ってもタレでしか食べたことはなかったし、種類もねぎを挟んだものだけだったのです。メニューを見ると、見たことも聞いたこともないものばかりでした。Sさんは、「ためしに塩も頼んでみるか?」と言って、ねぎま、カシラ、ハツ、皮などを、タレと塩を適当に混ぜてオーダーしました。塩の焼きとりがこんなに美味しいということを、僕はその時初めて知りました。
Sさんはビールを飲みながら、いろいろな話をしてくれました。宇宙の話、工学の話、歴史の話、学生運動の話、それから大学での生活など、今まで聞いたこともないような話ばかりでした。
その後、Sさんは、母から、「こういうことは、今回限りにしてください」と言われたのだそうです。しかし、この焼きとり屋の一件から、僕のSさんに対する態度が変わりました。
Sさんは、宿題をさせてトレーニングするという形ではなく、「勉強のやり方」だけを教えてくれました。やり方は、とてもシンプルでした。数学については、教科書とSさんが買ってきてくれた参考書の例題だけをまず完璧に理解すること、そして繰り返し解いてみること、英語については、教科書の二ページ分ぐらいを、毎日声を出して三回読むこと、国語は、新聞の社説を読むことと小説などの本を読むことでした。
困ったのが、本を読むと言うことでした。僕はそれまでまともに本を読んだことがありませんでした。読むと言えば漫画で、僕の部屋の本棚にあるのは、漫画本ばかりだったのです。Sさんは、「なんでもいいから、文章だけのものを読んだらいい」と言います。しかし、読書感想文で嫌な思いをしてきた僕は、読書に嫌悪感がありました。Sさんが、「どんな本でもいいんだよ。簡単なものでいい。例えば探偵小説とか」と言うので、僕は、手始めにエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」を読みました。それが面白かったので、やがてコナン・ドイル、アガサ・クリスティ、そして、中学三年になると探偵小説以外の小説、芥川龍之介、太宰治、北杜夫や、サリンジャー、ヘミングウェイなど海外の小説も読むようになりました。
僕の成績は、だれも予想しなかった勢いで上がり始めました。三年生になると、僕は成績では優等生の部類になっていたのです。態度は元のままでしたが。
ルサは、この話を嬉しそうに聞いていました。
「Sさんは、いい先生だったのね。あなたの力を引き出してくれた」
「僕は運がいいのですよ」
「運を掴んだのは、ヨシ、あなたよ。そして、長い目で見ていたら、うまくいったのね?お父さんが言っていたように」とルサは、言いました。
このセッションで、僕は、自分にも困難を乗り越えた経験があり、Sさんや父のように僕を信じてくれた人がいたことを思い出すことができたのです。
ルサが行ったアプローチは、特別な技法はありません。ただ、僕の生育歴を丁寧に聞いてくれただけです。そして、時々、僕の自分に対する認識を深める質問をしてくれたのです。例えば、父の「長い目で見てやれよ」という言葉に注目し、「でも、あなたは、やがてエンジニアになったのでしょう?そして、今大学院で勉強している。何か勉強に目覚めるきっかけがあったの?」と聞いてくれたので、僕も「成績が急に上がった奇跡の一年半」について話したのだと思います。そうでなければ、結局自分が母から期待されていなかったと言う話で終わっていたかもしれません。父の「長い目で見てやれよ」という言葉が、僕にとって大事な言葉だったことをルサと話すまで、認識していなかったのですから。
また、ナルシシスティック・エクステンションについてのサイコ・エデュケーションは、母の戦争トラウマとそれに伴う不安・恐怖についての理解を深めることになりました。母の微妙で長期的な精神的介入は、母の暴力的支配ではなく、戦争トラウマによる怯えの表れなのだろうということが理解できました。そのことは頭ではわかっていたのですが、ルサとのセッションの中で、腑に落ちる形で理解できました。
ルサとのセッション以外でも、僕は多くの人たちから助けてもらいました。
三週間の間、僕は学校の空き時間にロールプレイの練習をしました。クライアント役にはクラスメートがなってくれて、空いている教室を使って練習したのです。一番協力してくれたのは、サマンサとスーザンの台湾からの留学生たちでした。彼女たちは、的確なフィードバックをくれました。いいところも、ダメなところも指摘してくれたのです。サマンサは、同じジュディーのクラスを履修していたので、僕のうまくいかなかった模擬セッションを見ています。その彼女が、何度目かの練習のあと、「以前よりずっといい」と言ってくれました。僕は、彼女たちに励まされ、元気づけられ、応援されました。それは、とてもありがたいことでした。
三週間が経ち、ジュディーのカップルズセラピーの最後のクラスの時が来ました。僕の前に一つ模擬セッションがあり、それはとてもいいフィードバックをもらっていました。僕は、あんなふうにできるだろうかと不安になりました。「ダメかもしれない」と言う言葉が浮かび、消えなくなったのです。僕の身体の反応は、小学校二年の靴泥棒事件のときと同じになりそうでした。心臓が高鳴ると共に喉が詰まり、呼吸が苦しくなり、何も考えられない状態になるかもしれません。
休み時間にクラスメートと談笑する余裕もない僕は、屋上に行って、サンフランシスコの街並みを眺め、深呼吸しました。「やるべきことはやったのだから、なんとかなる」と、僕は、自分に言い聞かせました。
教室の前で、サマンサに会いました。一緒に教室に入ったとき、彼女が「ヨシ、自分を信じるのよ!」と励ましてくれました。
僕は、ジュディーに促されて、クラスメートの前に立ちました。クラスを見回すと、みんな僕のことを見てくれています。日本にいたとき受けた「セミナー」の「宣言」のエクササイズの時に似ているなと思いました。そう、「ハードなアプローチは有害か?その1、2」に登場した「Aさん」は、僕のことです。あの時と同じように、みんなが僕を応援してくれていたのです。
時間になり、クライアント役のマーサとローリーが、教室に入ってきました。教室の中がセラピールームで、クライアントを迎えるという設定です。
僕が、彼女たちに、「What brought you here?(今日は、どんなご相談で来られたのですか?)」と最初の質問をして、セッションが始まりました。マーサが男性役、ローリーが女性役の設定でした。ふたりの間が最近どうもギクシャクして、お互いに不機嫌になっているという設定で、「暴力があった」、「浮気された」などの具体的な事件があったわけではない事例なので、焦点を絞っていくのが難しいケースです。
僕は、ルサを見習って、ほんの一瞬の間を作るようにしながら、クライアントのちょっとした表情の変化や声のトーンの変化などの非言語メッセージに注意を向けました。
セッションが始まってから、ジュディーとクラスメートは視界から消え、目の前には、マーサとローリーしかいないような感じになりました。
僕は、純粋に、クライアントの抱えている問題に興味を持つことができました。なぜ、気持ちのすれ違いが起こったのだろう?何がマーサを怒らせ、ローリーを悲しませたのだろう?という方向に神経を集中させることができたのです。
クライアント二人の表情が柔らかくなり、問題は解決しないものの、その糸口ぐらいは見えてきた時点で、三〇分の模擬セッションが終了しました。
その瞬間、拍手が起こったのです。クラスメートからのフィードバックは、ほとんどがポジティブなものでした。
最後にジュディーが「Great Improvement(大変な進歩ね)」とコメントしました。そして、「You are ready for practicum(もうプラクティカムの準備ができたわね)」と付け加えてくれました。
私は、プラクティカム(実習)に行けることになりました。ジュディーとルサと、サマンサとスーザンをはじめとするクラスメートのおかげです。
It’s Not Just a Technique: A Subtle Approach - Part 3
During my sessions with Lusa, I often talked in detail about my upbringing from elementary school onwards. In second grade, I was labeled not just as a shoe thief but also as a problem child who burned the stolen shoes in the incinerator, so elementary school wasn’t a comfortable place for me. I think my teachers always suspected I might cause trouble again. In reality, I was often scolded by teachers, and my mother also seemed to feel ashamed.
My mother was passionate about education. She wanted my brother and me to pursue science-related careers. She was born in 1933, so she was from the pre-war generation. She often said that people in science were not drafted during the war. Many people in the arts, including students, were drafted and ended up dying. Knowing this, it’s not hard to understand why she wanted us to follow a scientific path.
However, I felt I couldn’t live up to her expectations. My grades were terrible. In contrast, my younger brother, two years younger, was well-known for being smart, and my cousin, who was the same age as me, would eventually go to a top university. My mother never explicitly compared my grades to my brother’s or cousin’s, but I still felt an inferiority complex toward them.
My mother often said things like, “It would be great if you could become like ○○” or “Don’t you want to be like ○○?” ○○ referred to either an intellectual career or a capable person. I think she said those things to encourage me, but it only reinforced my feelings of inadequacy.
In my last story, I mentioned how my mother, who often said, “Do what you love in the future,” became angry and cried when I jokingly said I wanted to become a comedian. This was an example of a double bind, where conflicting messages are sent simultaneously. This long-term and subtle psychological intervention from my mother can be seen as a form of control.
I also often heard things like, “○○ said you’re a capable child when you put in the effort.” However, hearing that didn’t make me happy. The phrase “when you put in the effort” essentially meant, “You’re not doing well now,” and I understood that.
Through my graduate studies and sessions with Lusa, I came to understand the reasons behind my mother’s obsessive tendencies to control.
When the war ended in defeat, my mother was in the sixth grade. Being a serious person, she probably believed everything adults said. She likely never doubted that the Allied forces were the enemy and that Japan was fighting a righteous war. However, after the defeat, the adults around her suddenly changed. The same people who once called the Allies evil beasts quickly embraced pro-American sentiments and began to loudly sing the praises of democracy.
I think my mother must have been confused. I imagine she never had the chance to build a consistent sense of self during that time. That inconsistency likely caused her and others of her generation to feel anxious.
In addition, her family’s business suffered a major blow during the post-war chaos. Despite having excellent grades, my mother couldn’t go to university. However, her younger siblings could attend university after the business recovered. My mother probably placed her unrealized dreams onto her sons. But in doing so, she may have blurred the lines between her hopes and ours.
People who experience a loss of dreams due to war or disasters often end up in a similar mental state.
The psychological tendency to unconsciously make one’s children fulfill their unrealized dreams, as if they share the same emotions and thoughts, is known as narcissistic extension. It’s when a parent unconsciously views their child as an extension or part of themselves.
Additionally, my mother lost her older sister during the war. Many people she knew, directly or indirectly, also died in combat. Because of this, I believe she wanted her sons to become science elites, a field she thought had the least risk of death. While I found her desires suffocating, I gradually came to understand that my mother was also a victim of the war. She was deeply traumatized by the war and lived with constant anxiety even in the post-war period. Ensuring safety became her top priority.
As I talked about my mother with Lusa, I remembered something from my first year of junior high.
One night, I woke up and overheard a conversation from my parents’ bedroom. I heard my mother’s voice saying, “...has good grades and is well-liked by the teachers, so I think they’ll be fine, but Yoshiyuki might not make it.” I didn’t hear the first part clearly, but she was probably talking about my brother.
I was sure then that her frequent reassurances—“You’re a capable child when you put in the effort”—weren’t genuine.
After that, I heard my father’s quiet voice say, “Give him time.”
Lusa was quietly listening to my story, and then she asked, “How did you feel about your father saying, ‘Give him time’?”
I recalled that time and told her, “While I thought, ‘I’ll probably fail even in the long run,’ I still felt a little bit saved by his words.”
“But you eventually became an engineer, didn’t you? And now you’re studying in graduate school. Was there something that sparked your interest in studying?” Lusa asked.
Indeed, there was a turning point.
After entering junior high, my grades started slipping slowly at first, then rapidly, as if tumbling down a hill. The junior high I attended was a public school in Tokyo, but many students had academically driven parents who sent them to cram schools or hired private tutors. By the end of my second year, my grades were disastrous. I still vividly remember my rank: I placed 84th out of about 130 students in the final exams for core subjects like English, math, and Japanese. I thought to myself, “I’ve really hit rock bottom.”
My mother, probably feeling she had to do something, hired a student from the engineering department at the University of Tokyo as my tutor. I first met S, the tutor, during the summer break. He had a bright and cheerful personality, but I had given up on studying by that time and spent all my time reading manga.
As usual, my mother explained to S, “Yoshiyuki is a good boy deep down. He can do well if he puts in the effort.” But those words only made me more detached. I took a rebellious attitude toward S.
During one of the tutoring sessions, when S found out I hadn’t done any studying, he asked me, “Are you not motivated to study?” I braced myself for the lecture I was sure was coming and replied curtly, “No, I’m not.”
I thought he might yell at me, but that was something I was used to, so I didn’t care. However, S didn’t say anything.
When I looked at S, he wasn’t angry. In fact, he was smiling. Something felt different. Then he said, “I see. Well, let’s stop studying. Instead, how about we go grab some yakitori?”
I was confused and asked, “Yakitori?”
“Yeah, yakitori. There’s a place near the station that looks good, don’t you think?” he said, packing up his pens and getting ready to leave. He told my mother, “That’s it for today. I’m borrowing Yoshiyuki for a bit,” and took me outside. My mother was flustered but too surprised to stop us.
S took me to a yakitori restaurant for the first time, and we sat at the counter. Until then, I had only ever eaten yakitori with sauce and only the kind with green onions. The menu had all sorts of items I’d never heard of. S suggested we try some with salt, so we ordered a mix of negima, kashira, hearts, and skin with both sauce and salt. That was the first time I realized how delicious yakitori with salt could be.
S drank beer and talked about various topics—space, engineering, history, student movements, and life at university—subjects I had never heard anyone talk about before.
Later, my mother told S to never do something like that again, but after that yakitori incident, my attitude toward S changed.
S didn’t drill me with homework. Instead, he just taught me “how to study.” His methods were simple. For math, he had me thoroughly understand and repeatedly solve the example problems from the textbook and the reference book he bought for me. For English, he had me read about two pages from the textbook aloud three times every day. For Japanese, he told me to read newspaper editorials and novels.
The challenge was reading books. I had never read a proper book before. I only read manga, and my bookshelves were filled with comics. S said, “Just read anything that’s pure text.” I had a strong aversion to reading because of bad experiences with book reports, but S said, “It doesn’t matter what book it is. It can be something simple, like a detective novel.” So I started with Edgar Allan Poe’s The Murders in the Rue Morgue. I found it interesting, and soon after, I moved on to Conan Doyle, Agatha Christie, and by my third year, I was reading more than just detective novels—authors like Ryunosuke Akutagawa, Osamu Dazai, Michio Kita, as well as international authors like Salinger and Hemingway.
My grades started to rise at a pace no one expected. By my third year, I had become one of the top students in my class, though my attitude remained unchanged.
Lusa listened to this story with delight.
“S was a good teacher, wasn’t he? He brought out your potential.”
"I guess I was lucky," I said.
Lusa smiled and replied, "It wasn't just luck, Yoshi. You seized the opportunity. And when you were given time, things worked out, just as your father said, didn't they?"
In that session, I was able to recall that I had indeed overcome difficulties in the past and that people like S and my father had believed in me. This realization gave me strength.
Lusa's approach in this session wasn’t about using any special techniques. She simply listened attentively to my upbringing and occasionally asked questions that helped me deepen my understanding of myself. For instance, by focusing on my father's words, "Give him time," and asking, "But you eventually became an engineer, didn’t you? And now you’re studying in graduate school. Was there something that sparked your interest in studying?" Lusa helped me recall the “miraculous year and a half” when my grades dramatically improved. Without her questions, I might have concluded my story with the feeling that my mother never really had high expectations for me. Before talking with Lusa, I hadn’t even realized how important my father’s words were to me.
Additionally, the psychoeducation about narcissistic extension helped me better understand my mother's war trauma and the anxiety and fear that came with it. What I had once perceived as subtle, long-term mental control from my mother, I came to see as her fear and helplessness stemming from the war. Intellectually, I had known this, but through my sessions with Lusa, I came to fully grasp it on a deeper level.
Outside of my sessions with Lusa, I was also helped by many others.
During those three weeks, I practiced role-playing during my free time at school. My classmates volunteered to play the client roles, and we used empty classrooms for our practice. The two people who helped me the most were Samantha and Susan, two Taiwanese exchange students. They gave me detailed and precise feedback, pointing out both the things I was doing well and the areas where I needed improvement. Samantha, who was also in Judy's class, had seen my failed mock session. After one of our later practice sessions, she said, "You're doing much better than before." Their encouragement and support lifted me up and gave me the confidence I needed.
Finally, the day came for the last Couples Therapy class with Judy. There was a mock session before mine that received great feedback. I started to worry, wondering if I could do as well. The words “I might fail” kept coming to mind and wouldn’t go away. My body began to react the same way it had during the shoe theft incident in second grade—my heart raced, my throat tightened, and my breathing became labored. I feared my mind might go blank again.
During the break, I went to the rooftop, overlooking the streets of San Francisco, and took deep breaths. I reminded myself, “I’ve done all I could. Whatever happens, I’ll be okay.”
I met Samantha in front of the classroom. As we walked in together, she said, “Yoshi, trust yourself!”
Judy signaled for me to start, and I stood in front of my classmates. As I looked around the room, I realized that everyone was there for me, supporting me. It reminded me of the "declaration" exercise I had done in a seminar back in Japan, as I described in “Is a Hard Approach Harmful? Part 1 and 2.” Back then, the group had also been cheering me on.
The time came, and the clients, Martha and Laurie, entered the classroom. The setting was as if we were in a therapy room, welcoming the clients.
I began the session by asking them, "What brought you here today?"
Martha played the role of the male partner, and Laurie played the female partner. The case involved a situation where their relationship had recently become tense, with both partners feeling irritable. There hadn’t been any major incidents like violence or infidelity, so it was a case where it was difficult to narrow the focus.
I followed Lusa’s example, allowing for brief pauses while paying close attention to the clients' subtle changes in expression and tone, focusing on the non-verbal messages.
As the session progressed, Judy and my classmates seemed to fade from my awareness, and it felt as though only Martha and Laurie were in front of me.
I became genuinely interested in the problem they were facing. Why was there this emotional distance between them? What had made Martha angry and Laurie sad? I was able to fully concentrate on understanding their feelings.
As the session went on, both of their expressions softened. Although the problem wasn’t fully resolved, the first steps toward resolution became clearer. At that point, the 30-minute mock session came to an end.
Applause erupted at that moment. Most of the feedback from my classmates was positive.
Judy gave her final comment: “Great improvement,” she said. Then she added, “You’re ready for the practicum.”
I had made it—I was now ready to move on to the practicum. I owed it to Judy, Lusa, Samantha, Susan, and my classmates.
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