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人はケダモノであるし、もしかしたらケダモノを超過する

残酷さを持った生物なのかもしれない。
それはナゼであろうか。
ではケダモノではない状態、とは一体何かという所から
考えを初めなければいけない。

今ここにある人間としての暗黙のルールのようなものは
有史以来、様々なトライ&エラーを繰り返し生み出されたもので「あろう」ものであり、それ自体、確固なものであるが
やはりそれは所詮「確固とした人間としてのルール」でしかない。
それを叛く事はともすれば非常に容易なものである。
その容易さ故に人間としてのルールというものの重要性が際立ってくる。
よってそのルールを穢していない状態が「ケダモノではない状態」と呼称される事になる。

しかしではナゼ人はそれを時として仆してしまうのか。
ルールをプロテクトするには、それなりの罰則を設定しなければいけないのだろうか。
あるいはその設置された罰則の拘束力、瞬発力が低ければ
ルールというものの存在意義は薄まってしまうのだろうか。

ここに人がケダモノ未満になってしまう理由があるように感ずる。
設置されたルールというものは、やはり非常に脆く儚い。
ルールというよりは、あるいはもはや希望や願望でしかない。
ましてやルール上の為業とルール外でのアクトでは、
後者の行為の方が前者を上回ってしまう。

人間の性質には2つの相反するパターンが内存している。
「群れを成す」「群れの中での優位性を獲得する」。この2つだ。
このある種の二律背反的行動パターンの中で、
ある者は群れの中での優位性を獲得すべく、
また優位性を獲得しやすいようルールを蔑し、
その状態で振る舞う行為それが、時としてケダモノ以上の残酷さとして
顕われるのではないだろうか。

豪 世倖
Yoshiyuki Gou

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