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血小板の輸血を弟はしていたのですが、お正月明けに次の輸血日をドクターが1月15日ね。と言ってきた。
「え?先生その日は成人の日(15日)で休みですよ」と伝えるとみるみる顔が青ざめていきました。血小板の手配ができていなかった。それならば、と16日の朝一番に私の血液から血小板を輸血することになった。

ところが、よりによってその日は朝からものすごい雪。前日は母と交代する遅い時間まで弟の病室にいたので、少し寝不足で血圧が低い感じだった。そこで朝風呂に入ってから、しっかりと防寒して病院へと急いだ。

到着してすぐ弟の病室に挨拶に行こうと思ったけれど、ちょっと弟の状態が良くなくて処置していたので、先にドクターと別館の採血の部屋へ急いだ。
針を入れて、遠心分離機のような機械が稼働を始めた数分後にドクターに電話が入り、弟の容態が急変。ドクターは輸血準備で寝かされている私を残し、走って病室へいってしまい、私も急いで抜針してもらって、いそいで入院病棟へくらくらしながら飛んでいった。

既に弟の周りには父と母、そしてなぜかほぼ全看護師さんが取り囲んでいて、よりによって弟が一番苦手としていた看護師さんが耳元で弟の名前を叫んでいるという、ありえない状況・・・。
11階の大きな病室の窓から外はものすごいぼた雪で真っ白。次から次へと雪が舞い降りる様子に思わず弟に。雪だよーと目を開けてーと言ってみたものの、母の「まだ学校に提出する作文書いてないんだから、やることあるんだから」という動揺した声にかき消されてしまった。何いってるのだろう、今天に召されようとしている瞬間に、あっ宿題まだだった!と戻ってくるものなのかなとか妙に冷静に思いつつ、弟のつぶった目から流れる涙と鼻からの血をタオルハンカチでぬぐった。急いで私の少しだけ採れたての血小板をいれてもらったけれど、間に合わなかった・・・。

すぐに病理解剖に出され、何かお役に立てばと内臓を研究のために寄付することになり、お別れもそこそこにベッドに乗った弟は地下へと運ばれて行った。
呆然とする母をよそに、部屋を片付けなかきゃという思いでバッグに弟の荷物を詰め込んだその時、ナースステーションからお電話です、と呼ばれて私が受話器をうけとると「こんちはー今日共通一次の初日終わったので、△△と■■と一緒に病院に○○に会いに行っていいすかー?」という弟の仲の良い同級生からだった。どうしよう、どうしよう、なんて答えよう、共通一次初日直後になんて言えばいいんだろう。ショックを受けて明日二日目受けられなかったらどうしよう。と動揺したものの、正直に「ごめんね。今ね息を引き取ったの。せっかく来てくれようとしたのに、ごめんね」「え、どういう意味ですか?」「あのね、○○はちょうどさっき死んじゃったんの。ごめんね。」と彼の気持ちの動揺が受話器から噴き出すように感じてしまい、ごめんねを連呼してしまった。
その後、私は電車で先に帰宅したものの、家の前の通りが積雪で車が入れないので、雪かきをし、弟の事で精いっぱいだったので散らかり放題の家をなんとか整え、布団を一階リビングにしいて、帰宅を待った。

内臓がすっかりなくなって、胸がぺしゃんこになってしまった弟の亡骸を横たえ、その晩、おそらく昔行った今井浜の海水浴以来だと思うが、家族4人で川の字になって寝たのだ。寝息が聞こえてこない弟はどんどん硬くなっていって、顔が別人になっていくのが分かっても、思わず名前を呼んでしまう。起きないけれど、何度も呼んでしまう。

翌日は通夜に代わる前夜式を教会で行い、共通一次を終えた制服姿のクラスメイト全員が献花してくれる間、来場くださった参列者の皆様のすすりなきはマックスに。そしてそこには泣けない私がいました。どうしても受けられない何かがあって、泣けなかった。
参列者が献花すると同時に両親、と私に声をかけてくださり、「○○君の分もまなちゃんががんばって、ご両親を支えてね」と何度も何度も言われることをうまく受け取れなかった。当時21歳だったのに、私には肉親を亡くすということを受け入れることができるほどまだ大人ではなかったのだと思う。


もし戻れるなら、先生に成人の日の話を前もってして、血小板の手配をもっと早めにしておいてもらいたい。あの日、まずは輸血に行かず、病室に入っておはよう、今日も来たよと弟に声をかけたい。弟が病理解剖に行っている間、すぐに片づけたりせず、母をそっとハグしてあげたい。弟の友人の電話にごめんね、よりありがとうを言いたい。そして葬儀にきてくれた皆さんとハグしたい。そんな気持ちで今年も弟を想う1月16日です。


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