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若さゆえの選択⑫ (玲奈) ~終わりなき道を歩く~

 静かな夜だった。
 まるで、何か事が起こる前触れのような静けさで、胸の奥のざわめきが離れなかった。
「私、このシェアハウスから出ようと思う」
 詩乃に、最初にそう打ち明けた。彼女が一瞬、息を呑んだように動きを止める。
「そう……なんですね」
 私に向き合い、詩乃は笑顔をつくった。
「おめでとうございます。念願の、声優デビュー叶いましたもんね!」

 ここから出よう。
 そんな思いが、デビュー前、いつの頃からかあった。ちょうど、詩乃との距離が縮まり、仲良くなり始めたくらいのころだった。
 今のシャアハウスや、住んでいる他の仲間たちとの間に不満はない。けれど、何となく今のままではダメな気がする。もっと自分を追い込んで、真剣にこの身を懸けたい。そのために、思い切って環境を変えたい――。
 オーディションに合格した電話がかかってきたのは、ちょうどそんなタイミングだった。

「『ああ、人生って、こうやって切り拓いていくんだなあ』って思った」
 詩乃に電話を受けた瞬間のことを聞かれた時、私はそう答えた。
 初めてオーディションに合格して仕事を得られると、それが自信になったのか、その後すぐ、他のオーディションからも続けて合格の連絡があった。
 それまで箸にも棒にもかからなかったのに、なぜ今になって……?
 まさか、これは夢ではないのか? 何としてでもオーディションに合格したい、そんな私の強すぎる願望が、幻覚を見せているのではないか? そう思った程だ。
 しかし、実際にスタジオに入り共演者と仕事をしていくと、そんなふわふわした思いはすぐにかき消された。

 ピリッと引き締まった空気と、一瞬の油断も許さないような緊張が、そこにはあった。
 思わず、立ち竦んだ。
 ずっと声優になりたい、プロとしてデビューしたいと夢見て今日まで苦汁を飲み、頑張ってきたつもりだ。けれど、いざこの場に身を置いて初めて感じる、現場の圧。
 自分が適しているから、実力があるからこそ合格したにも関わらず、オーディションとはけた違いに、求められる演技のレベルが高いことに愕然とした。
 本当に、こんな世界で自分はやっていけるのか――。
 念願だった声優として一歩を踏み出した初日の帰り道、私は肩を落とし、じっと俯いたまま家路についた。

 そんな衝撃があったからこそ、シャアハウスを出るという思いは、かえって強くなった。
 自分のレベルを考えたら、この先どこまでやれるか分からない。オーディションには合格して、ようやく念願叶ってデビューをしても、生き残るのはほんのわずかばかりの人だけ。
 普通なら経済的なリスクを回避するべきなのだが、私は逆に吹っ切りたかった。
 引っ越しをして、新しい環境で、今より上を目指して挑戦する。
 これでダメなら、他は何をやってもダメだろう。
 腹を括った、まさに背水の陣の覚悟だった。

「やっぱり、デビューしたらお金いっぱい貰えるんですか?」
 詩乃が尋ねる。その目は、祝福と悲しさ、両方が滲んだ複雑な色を湛えていた。
「いや、全然だよ。やっとデビューできたはいいんだけど、うちらの仕事って、割と薄給だから」
 私は、ごまかし笑いを浮かべながら答える。そんな様子を見て、ようやく詩乃の顔が少しほぐれたように見える。「やっぱり、何か玲奈さん、変わりましたよね」
「えっ」
 思いもよらない言葉に、私は詩乃を覗き込んだ。

「以前の詩乃さんって、夢に向かってひたすら全力でがむしゃらな感じだったんですよね。まるで、周りに噛み付かんばかりの勢いで……。
 でも、今の詩乃さんは、何かもっとこう……落ち着いて冷静に、より適切な一手を重ねてるっていうか。前よりずっと柔らかく親しみやすいのに、前よりずっと、レベルが上がって遠くに行っちゃったなあって、私ときどき感じてるんですよね」

 途中でツッコもうとした私に間髪を入れさせず、詩乃はそう言い切った。
「たしかに、そうかもしれないね」
「いや、絶対そうですよ。だって、以前の詩乃さんだったら、私がこんなこと言える雰囲気じゃなかったですもん」
「え、そんなに恐かった」
 私への思いを打ち明けてくれた詩乃に、心の中がジンと熱くなった。じゃれるように、私は詩乃と軽口を叩き合う。

「……もし、帰りたくなったら、いつでもここに帰って来てくださいね」
 ふいに、少しだけトーンを変えた詩乃が、目線を外してそう言った。
「うん。ありがとう」
 下を向く詩乃に、私はそう答える。
 正直、本当に戻って来るとは思わない。詩乃たちにとっては残酷に思えたが、私は、詩乃たちとの関係も大事にしたい一方、今は全力で上を目指したい。そんな気持ちの方が強かった。
 
 子どもの頃から、ずっとずっと握り締め続けていた思いが、急に強い衝動となって口から溢れた。
「詩乃、私さあ……。
 プロになって、この道の第一線で、ずっとずっと終わりのない道を歩きたかったんだよね。
 どれだけ上に行ってもキリがない。成長の果てにゴールがないような、一生全力を傾けられる、自分の大好きな世界に行きたい。
 そんな夢に向かって、私、これからも頑張るよ」

 胸の中、目の前に詩乃に向かって、強く呼びかける。
 だから詩乃、詩乃もがんばって、と。

 じっと、こちらを見つめ続けている詩乃。
 そのゆらゆらと揺れる詩乃の瞳の中、私は、何か決意のようなものが彼女の瞳に宿ったのを感じたような気がした。

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