ショートショート ルビー色の思い出
「長い間、ほんとうにご苦労さま」
そう言って、絹代は私の肩に手を置いた。ともに歩んだ30年。たくさん苦労もかけたし、つまらないことで喧嘩もした。そんな妻の手に、私はそっと自分の手を重ねる。
「絹代がいてくれたからだよ」
妻への感謝を伝えたくて、地元でもなかなか予約が取れない、とある高級レストランに予約を入れた。
「ご予約の武下様ですね? お待ちしておりました」
恭しく腰を折ったウエイターが、微笑を浮かべながら私たちを出迎える。
噂にたがわず、料理にも店員の対応にも大満足。何より、絹代が楽しそうにしてくれたのが嬉しかった。
「実は、絹代にプレゼントがあるんだ」
目くばせをすると、ウエイターがそっと近寄って来る。
ウエイターが手にしたワインボトルを見た絹代が、怪訝そうに目を細めた。
「僕たちが、結婚した年のワインだよ」
絹代の目が大きく見開かれ、息を呑む。そして、手で口元を覆った。
「30年間、本当にありがとう」
そう言って、私はじっと絹代を見つめる。絹代の朗らかに微笑むとともに、その両目から、輝く水滴が漏れた。
「私の方こそ、30年間、どうもありがとう。これからも、こんな私ですが、どうかよろしくお願いします」
はにかみながら頬を紅くする姿は、結婚を申し込んだ30年前の、まだ若い当時の姿そのものだった。
こんな私? いやいや、とんでもない。私にとって、絹代と結婚できたことが、生涯で一番の幸せだ。
「また10年、20年、30年後も、祝えるといいね」
そんなときには絹代もヨボヨボのおばあさんか……。そう思いながら絹代の顔を見ると、なぜか絹代も私の顔をじっと見ながら、ふふふっ、と小さく笑っていた。
あ、絹代もきっと、同じことを考えてるな。
「乾杯しようか?」
そう言って、私と絹代はグラスを傾けた。
深い、芳醇なカシスの匂いが鼻腔を伝い、脳裏に30年間の日々を思い起こさせる。
出会って初めて、二人で食事に行った日のこと。
新婚旅行で訪れた、パリのシャンゼリゼ通りを歩いたときのこと。
結婚直後、絹代の手料理の味付けにちょっとした注文をつけたら、思わぬ喧嘩になったこと……。
忘れていたはずのことが、次々と脳裏を駆け巡る。
トロッとしたその赤ワインは、舌の上をなめらかに走り、ほのかに酸味のある余韻を残す。まるで、あっという間だったこの30年間の出来事ひとつひとつが、けっしてあっという間でなかったことを、年を経た私たちに教えてくれるように。
「ほんとうに、素敵なワインね」
一口喉に通した絹代が、じっとグラスを見つめながら言う。
グラスの中で、淡くきらめくルビー色。
「よかった、絹代に喜んでもらいたかったんだ」
私は、幸せそうに微笑む妻の姿に、自然と口元がほころんだ。
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