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ショートショート その男を見てはいけない

 初めてそれを見たのは、ある金曜の夜だった。
 明日から休日。気持ちが弾んで、いつもとは違うルートで帰宅しようと電車を乗り換え、家の近所の別の駅で降りた。のんびりと家まで歩いて帰る最中、ふと目をとめた暗い神社の境内に、彼はいたのだ。

 鳥居の向こう、賽銭箱の前で両手を揃え、熱心に何かを祈っている後ろ姿。夜も八時を回ったタイミングに、ことさら真剣にお祈りする様子からは、ひたすら大きな宿願があるのだろうと察せられた。私は静かに視線を彼から外し、また家への道を歩き出した。

 翌週、同じように帰宅のルートを変えると、またその神社で彼を見かけた。時刻は、夜の9時半。さすがに二回続けて、しかも同じ時間ならまだしも、違う時間にまた見かけたことは気持ちがいいものではなかった。
 何か、イヤなもの見たな……。そう思って、私は帰途についた。

 さらにその翌週。さすがに怖くなった私は、神社の前を通る定期券外のルートではなく、いつも通勤に使う定期券内のルートで帰宅することにした。
 いつも通りの、見慣れた風景。金曜の夜特有の、明日から休日だという帰宅者の弛緩した空気と、時折上がる酒に酔った人たちの嬌声。今日は、アレを見なくてもすみそうだな……。私は、人知れず安堵の気持ちを抱きながら最寄り駅に降り立った。

 背中をツゥーッと冷たいものが走ったのは、マンションまで帰り着き、出入り口のオートロックを開けようとした時だ。鍵の差込口にキーを入れた時、ふと背中に誰かがいる気配を感じた。思わず、目の前の開閉ドアに目を転じる。夜の光で鏡の役割を果たしているガラス張りのドアが、私の背後を映し出す。ハッと、息を呑んだ。先々週、先週と2週連続で見た、賽銭箱に向かう男の後ろ姿が闇の中に、ぼんやりと映っていた。

 慌てて振り向く。
 きっと夢か、何かの見間違い。振り向いた後ろには、何も変なものはない――。
 恐怖で身が竦むなか、振り向き間際にそんなことを思っていた。
 でも、いざ振り向いたその先には――

 果たして、男の後ろ姿が、私から2メートル程のすぐ近くにあった。
 ゾワッと、全身に鳥肌が立つ。直観的に感じた。
 マズい。絶対に、男にこっちを振り向かせてはいけない。振り向いたその姿を、見てはいけない。

 男が、お祈りのため曲げていた腰をゆっくりと上げる。胸の前で両手を合わせ、直立の状態になった男を前に、私は恐怖で身体を強張らせていた。逃げたいのに、逃げられない。腰が抜けて、動けなかった。
 やがて、男がゆっくりと身体をひねる。向こう側を向いていた足が、こちらに向く。そして、怖くて視界の端でしか捉えないようにしていた男の顔に、恐怖がゆえに視線がいった。

 首元に大きな黒い空間があり、首から上がなかった。
 あまりのことに、私は後ろの開閉ドアにお尻から思いっきり倒れ込んだ。後ろで、ミシッとガラスが軋む音がした次の瞬間。オートロックの開閉ドアのガラスが砕けると同時に、私は背中から床に大きく倒れ込んだ。

 気づいたときは、病院のベッドの上だった。マンション一階で、ガラスの破片の中に倒れていた私を、住民の一人が救急車を呼んで病院に搬送してくれたらしい。真っ白く眩しい病室の蛍光灯の下で、私はひとまずあの男から逃れたことに胸を撫で下ろした。

 翌日、大したケガはなく退院した私は、その足でお祓いをやってもらえるお寺に向かった。何か得体の知れないものに憑かれてしまったのではないか? その心配が大きかった。
応対してくれた住職の人に、かいつまんで事の経緯を話した。

「それは、まあ……。ある意味、不幸中の幸いでした」
 じっと私の話に耳を傾けていた住職さんが、まだ少し険しい顔でそう言った。
「え、どういう意味ですか?」
 不思議に思って、私は尋ねた。
「あなたが、後ろに転んで鏡となったそのガラス扉を割ってしまったことですよ。ガラスには、その男の人の姿が映っていたでしょうから」

 ガラスに反射したその男の姿を粉々に割ってしまったことで、私は助かったという。多少のケガは負ったものの、不幸中の幸いだったのだ。むしろ、後ろに転んでケガをしてまでもあのガラスを割らなかったら、今の私はどうなっていたのかわからない。
「それでも念のため、ちゃんとお祓いしますね」
 住職はそう言って、ねんごろにお祓いをしてくれた。
 不幸中の幸い、そんな出来事が、この世の中には確かにある。


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