見出し画像

ショートショート まやかしの恐怖

 本当に得体の知れないものを見た時、人はそれが何かは分からず、ただきょとんとする。
 もしくは、理解できないから認識することもできず、つまりいつもと違う、その異変に気づくことさえない。
 しかし、ごく稀に、どういうわけか頭の中に妙な違和感を残して記憶に残ることがある。
 ふとした時にその妙な違和感の正体に気づき、初めてゾッとするような恐怖に襲われるのだ。
 今村将太が経験したのは、そんな恐怖だった。

 月末、たまたま仕事が立て込んだことで、将太は毎日残業が続いていた。
 夜遅くまで働いて、寝るためだけに家に帰る。そして、眠気眼をこすりながら朝早く家を出る。仕事中以外は、疲れで頭が朦朧とする日々が続いていた。

 妙な違和感を覚えたのは、夜、シャワーを浴びた後だった。
 浴室扉を少し開け、将太は扉の反対面のタオルバーにかけているタオルに手を伸ばす。ぐったりして、今にも瞼が閉じてしまいそうな中、脱衣所に向こうにある暗闇が視界をよぎった。

 ……ん?
 惰性でタオルを取りながら、妙な感覚が身体を襲った。将太は動きを止める。
 何を不思議に思っているのか、自分でもよくわからない。ただ、今何かが心にひっかかったような気がして……。
 このところ残業続きで、疲れているせいかな。
 将太は、深く気に留めることはなく、そのままタオルで身体を拭き、浴室から出た。

 翌日――。
 夜遅く帰ってきた将太は、前日と同様にシャワーを浴びていた。
 まだ水曜日、ようやく週の折り返し地点。とはいえ、その後の木、金に仕事の山場を控えていた翔太にとっては、翌日以降のスケジュールが頭に重くのしかかっていた。

 今日も、疲れたな。ベッドに入って、ゆっくり寝たい……。

 そう思いながらも身体を洗い終え、シャワーで流した後のことだった。
 いつものように、浴室のドアをわずかに開け、反対面のタオルバーにかけたタオルへ手が伸びる。浴室外の脱衣所に広がる、毎日見慣れた暗闇。
 あ、そういえば昨日、ここで何か変な感じがしたような……。
 そう思いながら、手がタオルに触れた瞬間だった。
 脱衣所に広がる暗闇。そこに、浴室のすりガラス越しといはいえ、うっすらと白い影のようなものが見えた。

 えっ――?
 手元にタオルを引き寄せた直後、将太は身動きを止めた。
 えっ、今の何? 幽霊? 脱衣所には電気つけてないから真っ暗なはずなのに、何か白い影みたいなものが見えた。

 トクントクンと、静かに鼓動が早まる。
 たしかに今、白い影のようなものが見えた気がする。脱衣所は明かりをつけてないにも関わらず、真っ暗闇の中、白い影みたいなものが……。
 ふぅーと息を吐き出しながら、将太は浮かんでくる考えを何とか打ち消す。
 多分、疲れてるだけ。きっと気のせいだろう。目の錯覚か、何かの見間違い。絶対そう、そうに決まってる……!
『幽霊を見たかもしれない』そんな疑念を、将太は深く考えないことで強引に抑え込んだ。

 そのまた翌日――。
 木曜を乗り切って、あと一日。
 帰宅後、将太は4日間で積み重なった疲労と、あと一日で終わるという幾ばくかの安堵を同時に感じながら、ぼんやりシャワーを浴びていた。
 疲れて目がつぶれそうになりながら、身体を洗い終える。水で流した後、浴室のドアを開けてタオルに手を伸ばす。

 あっ!
 ソレが目に入るのと、昨夜あったことを思い出すのが同時だった。
 浴室のすりガラス越しに、脱衣所の暗闇の中に浮かび上がる白い影のようなものが、はっきりと視界に写った。
 ぞわっ、と、背筋全体に鳥肌が立つ。
 暗闇の中、得体の知れないものがじっと自分を見ているような感覚に、将太はハッと息を詰めた……

 のも束の間、フゥーッと息を吐き、将太はすぐに身体の強張りを解いた。
 肩を、ストンと下におろす。
 温かいシャワーで温められた浴室の空気が、外の脱衣所にゆらゆらと流れ出ているのが目についたのだ。

 なんだ、ただの湯気か……。ああーびっくりした。

 真っ暗な脱衣所に流れ出た湯気が、すりガラス越しに白い幽霊のように見えていたのだった。

 将太は、その事実を確かめるように、何度も何度も、しきりに自分の身体からも立ち上っている湯気を見た。そして、ひとりでコクンと頷くと、悠々と真っ暗闇の脱衣所へ足を踏み出したのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?