ショートショート 悪魔のささやきと、祖父の導き
11月11日。
35歳の誕生日を迎える前日、七瀬恭介は頭を抱えていた。
朝からふさぎこんでいた。身体が重く、気持ちが晴れない。鏡に映った自分の顔が、不満を溜め込んだような目で睨む。自分自身に睨まれて、恭介は立つ瀬がなかった。
会社をやめたい。
そんな思いを、入社当初から抱いていた。
このまま人生を終えるのかと思うと、やるせないような悲しような、何ともいえない感情に胸が覆われる。
俺のやりたいこと、それは――。
宙を仰いだ後、だらんと首を下に俯いた。
俺は、画家になりたい。
最初にその夢を意識したのは、中学生の頃だった。同時に、その夢を現実的でないと判断したのもまた中学生。浮かんだ夢は、またたく間に泡と消えた。
その後恭介は高校、大学と進学して、今の食品メーカーに働き口を得た。
絵を描くのは趣味であり、恭介自身、自分が絵で食っていけるほど才能が無いことは分かっていた。だからこそ、普通のサラリーマンとしての生き方を選んだ。はずだった。
はぁ。何やってんだ、俺。
小さな部屋、その窓から覗く向こうに重く雲が立ち込めていた。雨が降らないけど、空を覆って一日を暗く閉ざす、そんな雲が。
こんなことなら、たとえ破れかぶれでも、挑戦しとくんだった。
握ったこぶしを、フローリングの床に叩きつける。昨日から何度も思い出される、辞令前に出された内示を上司から受けた瞬間のことだ。
『七瀬君、おめでとう。実は、君も知っての通り、今上海で頑張ってくれている相田君が、赴任してそろそろ7年目だ。彼の後任として、上からは君が推されている』
突然のことに、恭介は事態がよく呑み込めなかった。
えっ、何? この人は何を言ってるの?
困惑する恭介を他所に、上司は得意顔になって続ける。
『いやあ、私も鼻が高いよ。何せ上海は、わが社の海外拠点の中でも、近年抜きん出て成長著しいし、今後もその成長はしばらく続くと見られている。そんなところに、上からは是非君をと、直々に指名があったんだ。私も期待してるから、どうか存分に、頑張って欲しい』
気迫のこもった声で堂々と言い切られたことで、恭介はことの重大さをよりいっそう重く受け止めた。断ることができない。それが分かると、恭介の身体からがっくりと力が抜けた。
どうしてもまっすぐ家に帰れず、恭介は会社を退けると、家の近くにあるバーに立ち寄った。酒が入らないとやってられない。そんな心境でいつもより早いペースで飲むのに、いっこうに酔いはやってこなかった。かわりに、今後自分はどうなっていくのかという、終わりの見えない不安だけが大きくなっていく。酔いの忘却は訪れず、かわりに沈みゆくくらい心境だけ抱えたまま、恭介は家に帰った。
俺は、本当にこのままでいいのだろうか……?
何度も何度も、恭介の頭に浮かぶ疑問の声。それは疑問でもあると同時に、「違うだろ」と後に続く答えも伴った明確な意志でもあった。
こんなんだったら、学生時代とかのまだ失敗が取り戻せたうちに、もっと挑戦しとくべきだった。
昨夜から、繰り返しなぞるように頭の中を駆け巡る声がまた響く。35歳、そこそこの地位と経済的な地盤を作っていた恭介にとって、それまで築き上げてきたその安定を捨て去るのはあまりにもリスキーな選択だった。
それでも……、と恭介はふたたび宙を仰ぐ。
このままだったら、俺は将来、今よりもっと後戻りが出来なくなったときに、今よりもっと大きな後悔をする。
そう思った恭介は、やにわに立ち上がった。よろよろと歩き、会社から支給されているパソコンのスイッチを押す。
ワードファイルを立ち上げ、辞表、とだけ書いたところで手が止まった。
ここまですれば、もうお前は満足だろ?
“一生かけても、どうせ叶わない夢。だけど俺は、ぎりぎりまで悩んで挑戦しようとした。でも、直前で踏みとどまり、堅実に生きて行こうとした” 辞表を書き始めるところまでやったら、十分そう言えるよな?
胸の中で、悪魔が囁く。
その言葉に耳を傾け、勢いに任せてパソコンを閉じようと手を伸ばしたときだった。
脳裏に、祖父の言葉が蘇った。
『悔いのない人生をいきなさい』
穏やかだけど厳しかった祖父の口調を思い出すと、急に胸のざわめきが止んだ。澄んだ水面のように、清澄な静けさが訪れる。
キーボードに指を置くと、カタカタカタと恭介は文字を入力する。
十分な引継ぎを経て、来年3月31日を以て退職したいこと。会社にはとても恩義を感じている一方で、どうしようもない私用で致し方がないこと。必要最小限の内容を簡潔に書き終えると、いつの間にか呼吸が上がっていた。
ふと、恭介は何気なく外に目を向けた。
重くたちこめる雲の間から、わずかだが青空が覗いていた。そしてそこから、一条の光が地上に降り注いでいる。
音もなく、恭介は大きく息を吸い込んだ。胸に、新しい空気が入って来る。
雲間から降り注ぐその光は、まるでキラキラと輝き、一歩踏み出す決断をした恭介を、暖かく祝福してくれているようだった。
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