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ショートショート 紅と蒼

 路上や街中で、ふと猫を目にしたとき――。
 紅を思い出すことがある。
 幼い頃の私を救ってくれた、あの勇敢な猫のことを。

 わずかに赤みがかった身体の色から、紅、と近所の人には呼ばれていた。
「紅、また来たんかい?」
「ほら、紅。エサだよ」
 近所に住む人たちに、その猫は共通の名前で呼ばれていた。
 ある時は、ミャーオと鳴いてすり寄っていくかと思えば、またある時は、ぷいっと知らんぷりしてそのままどこかへ行ってしまう。

 不思議な猫だった。
 猫らしいふてぶてしさと愛嬌があるかと思えば、どこか人間の気持ちを汲んだように、まっすぐにその瞳でじっと私たちを見つめ、そばに寄り添ってくれるような居心地の良さ。初めて付き合った彼氏と別れたときも、私は友人の真穂とではなく、紅のそばに座ってひとりで泣き明かした。

 紅は、あきらかにほかの野良猫たちとは違っていたのだ。
 むしろ、ほかの猫たちとはそりが合わないようで、野良猫同士が集まっていた公園なんかでは、ほとんど見たことがなかった。たまに猫同士で出くわしても、どちらともなくお互いから遠ざかる。紅は決してほかの猫とは慣れ合わず、かわりに人間と心を通わす――。今思っても、不思議な猫だった。

 その紅に、私は命を救われたことがある。
 市街の動物園に移送中のライオンが、移送車から逃げ出したときのことだ。高校を卒業して、上京までの日々を持て余していた私の前に、そのライオンは突如振って湧いた最悪の不運の如く立ちはだかったのだ。
 今となっては信じられない話だが、当時は世の中の体制と名の付くものはすべてがユルく、移送車の設備も十分でなかったらしい。バイト終わりの帰途の最中、目の前に現れた黄色いたてがみと荒々しい野生の吐息に、私は言葉を失った。

 今、ここで死ぬんだ――。
 その時感じたことを、私は今でもはっきり覚えている。絶望感、そしてまぬがれようもない死を目前した諦念と恐怖。ついさっきまで、どこまでも大きく広がっていたはずの見果てぬ未来が、急に風前のともしびの如く霞んだようだった。

 ガゥゥー、という低い唸りが、ライオンの口から洩れる。
 研ぎ澄まされた殺気が全身を貫くようで、私は立っているのもやっと。身じろぎひとつできず、ガタガタと歯を振るわせていたのだ。
 ――もう、ダメだ。
 襲い掛かられる。そう覚悟した時だった。
 スッと視界の端から、小さな影が私の前に躍り出た。それが紅だった。

 堂々たる体躯のたてがみの主に、小さな紅がピッと背筋を伸ばし、凛とした佇まいで向き合う。ライオンが身体を大きく見せて威嚇をすると、紅は少し前かがみになり、より睨みを利かす。決して一歩も引こうとしないその様子は、人智を超えたものだった。

 やがてライオンは、くるりと背中を向けると、興味を失くしたかのようにその場から去っていった。
 ライオンの姿が視界から消えても、私はまだ、目の前で起こったことが信じられなかった。10秒が経ち、20秒が経ったところで、ようやく遅れてきた安堵でへなへなと地面に座り込んだ。そして、抑え込んでいた緊張が遅れて噴き出すと、全身が小刻みに震え、とうとうその場に倒れ込んだのだった。

「ええーっ! じゃあ、その紅って猫に助けられたってこと?」
 大学に入り仲良くなった夕子にその話をすると、目を丸くして驚かれた。「すごい猫だね」と、彼女が感嘆の声を上げる。
「そう。私が今までの人生の中で出会った、ほかのどんな人よりも、その紅の方が何十倍も勇敢だったかな」
「まあ人じゃなくて、猫だけどね」
 と、夕子は軽いツッコミを入れる。そして、少し怪訝そうな顔で私に尋ねた。
「でも、どうしてそもそも、蒼子を助けてくれたんだろうね?」
「うーん。まあ、私こう見えて、野良猫と仲良いから」
 誤魔化すように笑って、私はその後話題をそらした。

 今でも、猫を見たときや何かに拍子に、ふと思い出す。
 あの、恐くてどうしようもなかった場面。自分より大きなライオンに、真っ向から毅然と向き合う紅の小さな背中。私より、ずっと小さな身体の中に、まっすぐ芯の通った、何か揺るがない信念のようなものを感じたこと。

 なぜ、身を挺してまで、紅が私を助けてくれたのか――。
 人には話さないようにしているが、私の中に、その答えはちゃんとあった。

 紅は、私が生まれて間もなく亡くなった、お姉ちゃんの名前でもあった。
 7歳まで生きたお姉ちゃんは、いつも私を可愛がってくれたと、父や母に聞いたことがある。あの紅は、お姉ちゃんの生まれ変わり。だからこそ、普通の猫だったら逃げる場面にも関わらず、身を挺してまで私を守ってくれたのだと、いつしか思うようになった。

 紅に救われたあの日以来、私は強く生きていこうと心に決めていた。
 どんな相手にも真正面から向き合って、大切な人を守れる存在になりたいと。
 まっすぐに背中を伸ばした、凛とした佇まい。あの日の紅の背中は、今でも私の瞼に強く焼き付いている。


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