見出し画像

若さゆえの選択⑧ (父) ~幸せのかたち~

 目の前に座る詩乃が、ぶすっといら立ちを募らせるように無言で私たちを睨んでいた。不機嫌そうに思いつめたその表情は、まるで私たちの顔を鏡に映したそのもの。我が身に降りかかる理不尽に胸の奥で怒りを募らせる性格は、私と千香(ちか)、両方からの遺伝かもしれない。
 そんな娘の溜め込んだ感情を爆発させたのは、妻が放った一言だった。

「もう知らん! 勝手にしたら!」
 隣りで千香(ちか)が金切り声を上げると、詩乃が身を乗り出した。
「勝手にするに決まってるじゃん! だって、私の人生だよ? 他の誰も、私の人生に責任なんて取ってくれない。自分で選んで、選択して、後悔のない道を歩いて行かないといけない。勝手にするのは、当たり前じゃん!」

 詩乃の声に、千香が固まる。隣にいた私も、思わず声を失った。
 咄嗟に返す言葉が無くて、ただ唖然となって詩乃を見る。
 肩で荒い息をする詩乃は、周りのお客さんの注意が自分に向いたことに気づいたのか、慌てて威勢をおさめた。肩でする息を、何とか落ち着けようとしている。
「――お母さんたちに向かって、その口の利き方は何なの?」
 妻の千香が、食い下がるように小さく吠えた。
 その瞬間の、詩乃の目に浮かんだ落胆の色。荒かった肩の息が、嘘のように消沈した。詩乃の肩が、だらんと落ちる。議論にならない、そんな娘の声を聞いた気がした。

「お父さんもお母さんも、全部詩乃のためを思って言ってるのよ。
 それなのに詩乃は、いつも自分勝手に好きなことをして、お父さんやお母さんに迷惑をかけて……。もっと、ちゃんとお父さんやお母さんに、親孝行してほしい」
 千香が、あからさまに大きなため息をつきながら言う。
 少し考え込んだ様子の詩乃が、言い淀むように口を開いた。
「二人に、親不孝だと思われるかもしれない。でも、今わたしが思ってることをはっきり言うね。
 たしかに、わたしは、お父さんやお母さんにすごく大切にしてもらってる。でも、お父さんやお母さんの言うことが、全部が全部、わたしのことを思ってのことかというと、正直、私はそうじゃないと思う。お父さんやお母さんの希望の方が強くて、わたしの気持ちは無視されている。そう感じることが、けっこうある」

 詩乃の言葉を聞いた瞬間、私は胸に嫌な感触を抱いた。親に対する娘の発言に不快感を覚えながら、一方で別の本心は、詩乃の言ったことに納得してうしろめたさを感じてしまっている自分がいる。
 私はそっと、隣りの千香の様子を盗み見た。驚きと衝撃で、身体をヒクつかせながら固まってしまった千香。しかし次の瞬間、千香は感情を爆発させたように娘に食ってかかった。

「そんな考え方が自分勝手だって、なんであんたは分からないの! お父さんもお母さんも、さんざん詩乃にいろいろやってきてあげたのよ。ちょっとは、ちゃんと親孝行して返しなさい」
 泡を食ったように、しどろもどろに反論する千香。しかし、そんな妻に対して、詩乃はトーンをおとし、落ち着いた口調で言った。
「わたしは、親孝行って、わたし自身が幸せになることだと思ってる。私が笑顔で、生き生きと楽しい人生を送ること。それが、お父さんやお母さんへの、最大の親孝行だって。
 やりたい好きなことをほっぽり出して、望んでないことをする悲しい人生。それをお父さんやお母さんは、望んでないと思う」
「だからあ」と千香が声を張り上げ、詩乃の言葉を遮った。

「さっきから言ってるでしょ。詩乃がこのままずっと万華鏡づくりの仕事を続けても、お金は全然貯まらないし、ずっとあんな人たちがいる家で過ごさないといけなくなる。将来、生活にも困るし、結婚だってしづらいと思ったのよ。だから、ちゃんと働ける役場の仕事を紹介したの」
 何で分からないの? と息巻く千香の様子とは対照的に、詩乃は困ったような、悲しそうな目で千香を見ている。
 断絶。
 二人の様子を見比べて初めて、そんな感覚が私の中に芽生えた。千香はきっと、詩乃の考えを理解できないし、詩乃もまた、母の考えが分かっていながら、決してそれに従うことはできないと意見を曲げない。
 自分の母親と、分かり合えない苦しさやいたたまれなさ――。
 詩乃が浮かべる、悲しげな表情。その顔が目に入ったとき、私の中で何かが動いた。
 分かり合えなくても、何とか一生懸命、お互いを分かり合いたい。
 そんな希望を捨てず、じっと我慢強く母親と向かい合おうとしている様子に、親を想う詩乃の優しさを感じたのだ。

「母さん」
 私は、二人の間に入るように声をかけた。
「詩乃にも、詩乃なりの考えや、人生があるんだ。こっちが望んでいることがあっても、それを強制することはできない」
 千香が、信じられないといった驚きの表情で私を見る。
「……お父さん、何を言ってるの?」と、困惑した声を出した。
「たしかに、『詩乃にはこうなって欲しい、こうしてもらいたい』という親としての思いはある。でも、詩乃の人生なんだ。たとえ、親がどう願おうと、実際に決めるのは詩乃。どう生きなさいと、私たちが強制したところで、何の意味もない」
「でもあなた、あんなに役場の人に頭を下げて……」
 食い下がる千香に、私は制するように首を振った。そして、視線を、千香ではなく詩乃に向ける。詩乃と、じっと目と目を合わせたまま言う。
「詩乃。詩乃が万華鏡づくりという今の仕事が好きで、こっちに帰りたくないという気持ちは、よく分かった。どうせ、最初はすぐ嫌になって帰って来るかと思ってたけど、ずいぶん、成長したみたいだな。詩乃がここまで頑張るなんて、正直、お父さんは思ってなかった」
 じっとこちらを見つめ返す詩乃の目が、かすかに揺らぐのが見えた。瞬く間に、瞳にゆらゆらとした滴がたまっていく。

「お父さんも最初は反対だったし、今でも、こっちで役場の仕事に就いてほしいという希望はある。だけど、詩乃がこれだけ必死で頑張ってるんだ。親として、応援したい」
 そう言うと、詩乃の頬をツゥーッと涙が伝った。その涙に、私の目が釘付けになる。
 慌てて視線を詩乃の瞳に戻すと、まるで堰を切ったように、止めどなく詩乃の目から涙があふれ出た。
 大粒の涙を、詩乃は拭いもせずにまっすぐこちらを見つめ続けている。
 娘の目から流れ出る涙。それは、詩乃がずっと胸の底で抑え続けてきた、私たちに対する感情のわだかまりや、これまでずっと蓄積されてきた、我慢の大きさのようにも感じられた。
 
 今まで、本当に自分勝手だったのは、一体どちらなのか――。
 あふれ出た詩乃の涙に、私の胸は大きく揺さぶられる。
 娘が望む、幸せのかたち。
 親の考えで、きっとこうだろうと思い描いていた詩乃の幸せは、実際に詩乃にとってはそうでないかもしれない。そんなことに、今更ながら気付き、ハッとなる。
 そうだ。幸せのかたちは人それぞれ。親とはいえど、他人がそれを押し付けることなど出来ない、と。
 ずっ、と詩乃が鼻水をすする。ようやく、右手の甲で流れ出た涙をゴシゴシと拭った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?