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若さゆえの選択⑩ (玲奈) ~自分で選んだ道、だから後悔なんてない~

 ガチャッ、とドアを開けられた音に、過剰なほど心が反応した。
 鼓動が、早鐘を打つ。
 誰かが家に帰って来て、玄関に上がる気配が続く。フローリングの床が軋み、短い廊下を進む様子が伝わった。
 個性は、足元にも宿る――。
 声優を目指し耳に聡かった玲奈にとって、誰の足音か聞き分けるのは普段なら容易だった。今のこの時を別として。そわそわとして落ち着けない視線が、リビングに入ってきたばかりの人物にぶしつけに向けられる。

「詩乃……」
 思わず吐息が漏れた。リビングに入った詩乃からは、どんな表情も読み取れない。
 ご両親との間で、何があったのか? どんなことを話し合ったのか?
 聞いた方がいいのか、それともそっとしておいた方がいいのか――。
 胸の内で瞬時に繰り広げられたその攻防は、決着がつかないままただ玲奈の身体を動かした。詩乃の前まで進み、そっと肩に触れる。

「お父さんとお母さんに、私が思っていることを全部話しました」
 虚ろな目をした詩乃が、疲れ切ったように声を出す。玲奈はそっと、詩乃をソファに座るようにいざなった。
「上手く言えないんですが、本音を言って、これでよかった気もするし、同時にやっぱりマズかったような気もしていて……」
 俯いた詩乃の背中が、いつにもまして小さい。その小さくなった背中から、とりかえしのつかないことをしてしまった、という雰囲気が漏れていた。

「そっか……」
 詩乃の言葉に逆らわず、玲奈は黙って側に寄り添う。
 本当はもっといろいろ聞いて、思いを吐き出させてあげた方がいいんじゃないか? それとも、このまま静かに、ただ側にいてあげるだけの方がいいのか? もしくは、いっそ一人にさせてあげた方がいいのか。
 さっきと異なる、答えのない問いが頭の中を駆け巡る。
 困難や迷い、葛藤に直面したとき、周囲がかけられる言葉が少ないことは、玲奈自身が身をもって知っている。でも、それでも――。
 玲奈の頭が、目まぐるしく動き続ける。
 私は、詩乃に救われた。以前、詩乃が言葉をかけてくれなかったら、あのキラキラと瞬きながら、それでいて燃え上がるような万華鏡の中の光景を目にしていなかったら、今の自分はない。
 今の自分に、詩乃にかけられる言葉なんてないのかもしれない。何を言っても、たいした力にはなれないかもしれない。でも、それでも。
 玲奈は、意を決したように大きく息を吸い込んだ。

「自分のした行動の是非なんて、結局は分からないよ」
 決して何でもないことのように、玲奈はボソッとつぶやくように口にした。隣りで、詩乃がハッとしたように身動きを止める。
「私が、本気で声優を目指すって言った時のことなんだけど――。
 それまで上手だ、上手い、って褒めてくれた人たちから、いきなり『どうせ無理だ』『お金にならない』『やめとけ。せめて趣味で』て言われたんだよね。でも、私はどうしても声優になるのを諦めきれなくて……。それで今、ここにこうしている」
 おもむろに小声で話し出した玲奈の声が、次第に大きくなる。

「自分が選んだ道が正しいか正しくないかなんて、私は正直、そもそも正解はないと思ってるんだよね。人生は、そんな簡単なものじゃない。それに、仮にもし正解があるとすればそれは、自分自身が、今の置かれた状態に満足してるかしてないか。それくらいじゃないかな」
 今自分が話す言葉に、一体どれほどの意味があるのだろう?
 玲奈の胸を、そんな不安が掠める。
 自分が話していることが、詩乃にとって全くの的外れだったらどうしよう? もしかしたら、まかり間違って、傷ついている詩乃をさらに傷つけることになるんじゃないか?
 そう思うと、玲奈の声は震えた。

「私さあ、たったひとつだけ、決めてることがあって」
 これだけは、今の詩乃にどうしても伝えたい。そんな思いが、玲奈の胸の奥底から湧き上がる。ドクンドクンと、張り詰めたように胸が鳴る。
 伝わらないかもしれない。届かないかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。
「『選ばなかった選択を悔やむより、選んだ現在(いま)を生きよう』。
 あの日、詩乃が一から初めて自分で作った万華鏡を見せてもらった日、そう決心したんだよね。『たとえ周りに何を言われても、私は私の人生を生きてる。だったら、ちゃんと胸を張って、前を向いて歩こう』ってね」

 そう、あの日の詩乃が声をかけてくれなかったら、今の私は本当になかったんだよ―ー。
 今とは真逆で、呆然とうなだれる自分の横に詩乃が座り、詩乃が自分を励ましてくれた時の記憶が蘇る。同時に、それから間もなくして電話で、初めてオーディションに合格したことを聞かされた時の、信じられない喜びの記憶も。

「正解のない人生。自分らしく、前を向いて一生懸命生きていこう。何かあったら、私たちがいるからさ!」
 月並みの言葉しか言えない。
 そんな自分を、玲奈はとても無力に感じた。
 あの時詩乃は、もっと強く、もっと私を思い遣った言葉をかけてくれたはずなのに。
 思うように詩乃の慰めにならないことに、玲奈は自分の不甲斐なさを感じて口をつぐむ。こんなこと、本当に言ってよかったのだろうか? という問答で、心は乱される。

 そうして押し黙った二人の間。聞こえたのは、うっ、と嗚咽をこらえた詩乃の声だった。
「ありがと」泣き声で、詩乃が小さく言う。「ありがと、玲奈さん……」
 やがて堰を切ったように、詩乃の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 小刻みに震える詩乃の背中に、玲奈はそっと手を置いて、優しくさすった。

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