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ショートショート あなたがいてくれたから

 これからお話するのは、ある女性の話です。
 初めて彼女に出会ったのは、彼女がまだ、小学生くらいの時――。本当に笑っちゃうくらい、彼女はその頃から全く変わっていません。今も、そのまっすぐな情熱とまなざしで、ひたすら純粋無垢に前に突き進んでいます。清々しいくらい、爽やかに。

 私は、年がら年中ずっとここにいます。とはいえ、最近、彼女の名前をよく耳にするようになりました。
「何かこの絵、鹿子木めい(かのこぎめい)が描く絵に似てない?」
「この絵だよね? 鹿子木めいが何枚も模写してたのって」
 私を眺めるお客さんの声を聞くたび、私は嬉しいと同時に、嫉妬するようなちょっと複雑な気持ちになります。せっかく私の前に来てるんだから、もっとちゃんと私を見てよ、って。でも、正直言うと、やっぱり嬉しい気持ちの方が大きいです。なぜなら、彼女は私にとって、一番の親友でもあるから。

「カチューシャのめいちゃん」

 その子は目を輝かせ、夢中になって私たちを見ていました。
 ほとんどの人は、ただぼんやりと、見るともなしに私たちを眺めて去っていきます。そんな中、彼女は心底嬉しそうに、私たち一枚一枚の前に佇んでいました。
「めい。もう行くよ」
 彼女の父親らしき人が名前を呼ぶと、その女の子はふるふると首を振りました。
「ええー、やだ。まだちょっと見たい」
「だーめ、お母さんも待ってるし、また連れて来てあげるから」
 あとちょっとだけ……、とせがむ女の子は、「ほら! もう行くよ」とお父さんに説得され、渋々と帰って行きました。

 次の週も、その次の週も、そしてまた、その次の週も――。
 女の子は両親に連れられ、私たちを観に来ました。いや、正確には、女の子が両親を連れて来ているようでした。彼女の父親と母親が、私たちをチラッと眺めて通り過ぎる中、彼女は飽きもせずに熱いまなざしを向けています。

 私も、彼女と向き合い対面しました。
 彼女のまっすぐな瞳が、私のことをじっと見つめます。彼女の純粋無垢な目に、まるで私の方が引き込まれそうでした。
 その子が、どんなに今この瞬間を楽しんでいるか――。
 上気した彼女の興味津々な表情を見るのが、私を含め、みんな大好きでした。
 私たちの一枚一枚を見て、心をときめかせ、胸を弾ませてくれるということ。作品として、こんなに嬉しいことはありません。彼女と対面するときはいつも、年甲斐もなく、私の胸も喜びで打ち震えてしまっていました。
 いつも、彼女は頭にカチューシャをつけていました。赤や白、青や緑。いつしか私たちは、彼女のことを『カチューシャのめいちゃん』と呼ぶようになりました。

募る思い

 ある日、いつものように彼女を含めた家族三人が、私たちを見に来てくれたときのことです。歩き疲れ、ベンチに座った彼女の両親が、娘の背中を見ながら話しているのが聞こえてきました。
「やっぱり、子供って純粋なのかしら? 私には、絵なんてチンプンカンプンなんだけど」
「いや、僕だって分からないよ。とはいえ、いいじゃないか。めいがあんなに楽しそうなんだから」
 彼女の父親は笑って、私たちを熱心に見ている娘の背中に視線を向けます。そして、ぼそっとつぶやくように言いました。
「めい、将来は画家になったりして?」
「えー。もう、よしてよ。子どものうち、子どものうちだけよ。大きくなったら、美術館に来たことなんて、めいもきっとすぐ忘れちゃうでしょうし」
「まあ、そうだな。きっと、きっと今だけ……」
 彼女の両親の他愛ない会話を聞きながら、私は胸の片隅に、小さな痛みを感じていました。

 いつか、『カチューシャのめいちゃん』も私たちを観に来なくなるんじゃないか――。
 毎週、私は彼女に会えるのが楽しみな反面、同時にいつか飽きられるのではないかという、恐怖も感じていました。
 いつかは、あの純粋無垢な目も、私たちに向けられなくなる。
 そう思うと、いてもたってもいられないような、もどかしくもかなしい気持ちになりました。
 この世の中には、たくさんたくさん、楽しくて面白いことがいっぱいある。あの子が、私たちを観るだけじゃない、もっと多くの楽しみに触れるのは、きっとあの子にとって幸せなはず。そう、分かってはいました。でも、いつか彼女が私たちから離れていってしまう日が来ると思うと、どうしても寂しい思いが募ってしまうのです。

炎が灯る瞬間

 そんな私の不安とは裏腹に、彼女は変わらず、毎週私たちを観に足を運び続けてくれました。唯一変わったのは、彼女の手にスケッチブックと鉛筆を握られるようになったということ。
 私の目の前に来ためいちゃんが、最初は少し、おどおどと戸惑うように、けれど意を決したようにスケッチブックを開いた瞬間のまなざしを、私は一生、忘れないと思います。
 鉛筆を握るめいちゃんの右手が、かすかに震えていました。いつもは楽しそうに澄んだ目をしためいちゃんの表情が、その日は緊張で強張っていました。そんな張り詰めた表情のまま、彼女は私と手元のスケッチブックを交互に見ながら、右手を動かします。
 やがて、書き終わっためいちゃんが静かにスケッチブックを閉じました。そして、ぎゅっと唇を引き結び、下を俯きます。私は、めいちゃんが私を模写してくれて、心が沸き立つくらい嬉しかった。本当に、喜びで打ち震えるくらいに……。でも同時に、彼女の悲しそうな様子を見ると、彼女が思ったように模写できなかったことを知りました。彼女に、何の言葉もかけてあげられない。それが、本当に辛かった。
 その日、彼女は初めて、父親と母親を促して足早に美術館を後にしました。手にスケッチブックを持ち、両目に涙を湛えた娘を見て、彼らは娘をなだめようとしました。けれど、めいちゃんは頑なに、「今日は帰る」と意志を曲げませんでした。

 その次の週――。
 彼女は、もう来ないかもしれない。
 そんな不安を抱いていた私の目の前に、めいちゃんは再びスケッチブックを持って立ちました。恐れも、恐怖も、そして挑むような気概も、その目に宿っていました。まだ年端もいかない彼女の年齢にしては、とても真剣で、ひりひりとした熱い緊張感がこっちまで伝わってくるようでした。
 しばらくして、私を写し終えためいちゃん。先週とは違って、もう彼女の瞳に涙はありませんでした。けれど、決して満足した様子とも違います。私は、何か彼女の目に、別の決意を見たような気がしました。めいちゃんの心の中に、何か熱い炎のようなものがポッと灯ったような、そんな瞬間でした。

描き続ける理由

 それから、めいちゃんは毎週私の前に立ち、熱心に模写をするようになりました。出来上がったスケッチを、両親も時々見て褒めたり笑顔を浮かべたりしていましたが、彼女はただ、曖昧に笑っているだけでした。
 もの言わぬ彼女の瞳が、雄弁に語っていました。
 こんなもんじゃない。私は、本当はもっともっと、上手く描ける、と。
 言葉には出さない、彼女の内に秘めた心の声を、私はかすかに聞いたような気がします。

 年に何日かの休館日を除き、彼女は毎週私のもとに通い続けました。そして、私だけでなく、ほかの絵や彫刻をスケッチしたりもしていました。
 毎週、私たちを観に来ているのに、どうして彼女は飽きないんだろう?
 私は、ずっとそんな疑問を抱えていました。でも、彼女がスケッチブックを手に、真剣なまなざしで私たちを模写する様子を見て、気付いたのです。彼女は、自分にできる最大限の模写を目指している。だから飽きることなく、さらに上へ上へと目指し、私たちを描き続けてくれているんだと、と。

 人々の服装が、軽快で薄着なものから厚手のコートへと変わる。そんな変化が何度も繰り返されました。
 日に日に、めいちゃんの背も伸び、綺麗だった黒髪はさらに美しくなりました。ほっそりとして、より女の子らしくなっためいちゃん。いつしか、彼女の頭からカチューシャはなくなりました。そのかわり、着ている服がよりお洒落で垢抜けたものになっていきました。
 そんな彼女ですが、『カチューシャのめいちゃん』の頃から、ずっと変わらないものがあります。それは、彼女の目です。大人になっても、彼女のまなざしは出会った頃のまま。絵に対する真っすぐな情熱は、揺るぎなく彼女の目に宿り続けています。

あなたがいてくれたから

 最近、彼女の展覧会がこの美術館で行われることに決まったそうです。
 その展覧会の名前を聞いた時、あまりの嬉しさに、私は一瞬声を失くしました。思わず、鼻の奥にツンとこみ上げるものを感じたほどに。
 展覧会にちなんで、彼女が描いた私や他の絵の模写も、彼女のオリジナル作品とともに展示されるとのことです。めいちゃんも、最近では海外での個展が増えたため、久しぶりに彼女に会えるのが今から楽しみです。

 ずっと、ここに飾られたままの生涯。私は、それを悲しく思ったこともありました。でも、今は違います。だって、めいちゃんに出会えたから。めいちゃんが私を見つめて、模写して、画家としてどんどん成長していく姿。その様子は、私の心にとめどない充実感や幸福感をもたらしてくれました。めいちゃんには、感謝してもしきれない。それくらい、彼女にはとても感謝しています。

 さあ、まもなく、彼女の展覧会の始まりです。
『鹿子木めい ~私の人生を決めた、一枚の絵~』展。どうか皆さんも、たっぷり楽しんでくださいね。

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