身近な弱い人たちを無視し続ける人々
どこか遠い国のこととか、火星とか神様とか宇宙とか宗教とか、遠い何かにばかり心とらわれる人々。
確かにそれらがいつか何かに繋がっているのはそう。けれど、もっと身近なすぐにでも助けられる人たちがいる、そのことから目を背け、遠い場所や未来やあったかもわからないような過去に思いを馳せる。
自分はいつも安全で恵まれた暇な環境にいる人たちが言う。
敵とか悪とか、正義とか正解とか。
見たこともない、体験したこともない、例えばメディアが報じていたとか、インフルエンサーがあれこれ言っていたとか。来るべき天災に備えないと、悪いことはやめて膿を出さないと、そう信じ意気込む。
信じたいものを信じる、正解を求める心はわかりますが、それはただの妄想。この世には、正解も不正解もない、善いも悪いもとらえ方次第。
周りは変えられません、変える必要はないことに気づき、自身と向き合うきっかけにすることでしょう。
自分と向き合うとは、自分の心と向き合うということ。そのためには、本当はやりたいと思っていることをやろうとなります。
人間の精神が幼い場合、必ず自分の経験から比較を生み出します。これが我さき、われ良しの精神。
過去の失敗から先手を打つべきだと信じて疑わず、どうせろくでもないならせめて自分だけがいい思いをしようとする。
こう聞くとなんと浅はかで自分勝手な考えに思えますが、誰もがはじめはこのような精神状態からスタートするものなのです。
人間である以上、物心がつき、自我が成長にするにつれ物事が理解できるようになり、脳内で思考実験を行い、目に見えるものや獲得した知識を比較し理解を深めるとともに、様々な経験をすることでだんだんと精神の成熟をむかえる。
誰もが自我の成長の過程を経て、いわゆる人間というものに成っていくのです。これらの成長過程を、試行錯誤というのです。
自分の経験や学んだ知識との比較はなんらおかしなことではない。しかし、未熟である段階においては、大半の人々はしなくてもいい比較をし続けてしまうのです。
つまり周りとの比較とは、思考の癖なのだということ。正解や不正解を求める行為も同じ。人生とは何なのか、今一度思いめぐらせる心のゆとりが欲しいものである。
私達はなにか物事を見聞きした際、必ず自分なりに理解に努め判断しがち。その結果、無用な比較や対立、分断を生み出すことになるのです。
自分が正しい、あの判断は誤りであるといった具合に。けれど、物事は私達が理解できる範疇を超えたところにある場合がほとんどであり、自分には間違っているようにしか見えないことが、実は大切だったりするのです。
古来から伝わる、表裏一体という言葉の通り、物事には必ず表裏があるということ。それを理解できれば、自分が物事を判断する必要がないと気づけるのです。
そしてここでまた、ではどうすれば? と、自分の中で判断の気持ちが沸き上がる。つまりそういうことなのです。
ここでまたどちらかを判断し選ぶことによって、表裏のバランスが崩れるのを延々繰り返しているのです。
あくまでも私達にできるのは、今自分がやるべきことを当たり前にすることのみ。であるならば、どちらかを判断している暇などないのです。できることは唯一、自分を生きることだと気づけるから。
全員佐藤さん、いえもうすでに藤原さんです
インフルエンサーや由緒ある家系の人達が、
「こうするといいよ」そう言います。
何もせずとも時代は巡りゆくものであり、彼らもまた結局は、有名になり最終的にお金儲けのための口実として、自分の家柄や過去の名声を使うマネタイズを行っているに過ぎない。
活動のため、資金が必要なのだからこうした方針は当然のことでしょう。こうしたなか、見る側がどのように思うかが肝心。
最近多い元皇族とか、◯◯の家系とか、彼らはビジネスでやっていることなので好きにすればいい。見る分にはタダでかかる時間も僅かです。おかしな宗教や謎のNPO法人活動などに比べればマシでしょう。
ここで気になるのは、そうした活動を見ている人たちの反応です。まず補足したいのは、日本人である時点で、誰もがほぼ間違いなく尊い血が流れているということ、多くの人が藤原へと繋がっているように、元◯◯家にあやかったりせずとも、すでに皆が尊き存在であるということ。
であるにもかかわらず、自分を卑下し、本当かどうかも判らないどこかの誰かに心寄せ、あまつさえお金まで払い、大切な時間を使い応援するとか、一度冷静になって自分の心と向き合ってほしい。
人は必ず最後には、自分の生まれてきた意味を見出すもの。それでもなお、人はそうとわからぬまま、ああでもないこうでもないと自分とは無関係な体験を積み重ねる。
自分の人生をより意義のあるものへ、より豊かな暮らしを求め行動ばかりを拡大させていく。やがて身の丈に合わぬ生活に苦しさを感じ、どうしてこうなったと嘆き悲しむ。
やがて無関係な体験の積み重ねの末に、自分にとって不要なものが禊払われて、残されたものが本来の自分であると悟るのだ。
そうとわかれば話は簡単。今日からは、自分に必要なことのみをすればいいから。何もしたくないなら何もせず、自分のペースで生きることから始めよう。
自分の人生の意味は、余計なことをせず、真っ直ぐに自分本来の道を歩むこと。周りからの余計なお世話や、自分との勝手な比較などによって、脇道にそれるようなことなく、お天道さまに向かって進めばいい。
『○○せねばならない』『する必要がある』『こちらのほうが良いよ』
全部自分とは無関係。
人生は短い、短すぎるのだ。自分だけの一瞬一瞬を大切にしたい。
考えることをやめない
考えるとは、つまるところツールである。道具を正しく使うように、考えるという道具をきちんと使うことが大切。
例えば卵焼きを作っていて、砂糖と塩の量を反対に入れたらどうなるでしょう?
物事を焦ると仕損じるように、塩を入れる段階で、ちゃんと正しいか確認(舐めればわかる)し、必要であればあらかじめラベルに『塩』と書いておくなどいくらでも工夫の余地があります。
このように、物事には道理があり、目の前の出来事に対して、きちんと考え自分が今できる行動へと繋げてあげることが肝要。
正しく考えを巡らせる癖が身についてさえいれば、何か大事な出来事が起こった際も、焦らずに落ち着いて対応できます。
情報と知識もツールなので使いよう。
一体どうして、世のスピリチュアリストが同じようなことを言い続けるのか、落ち着いて考えてみましょう。自分だったらどうするか少し考えればわかること。
すべては収益のため、生活のため、ビジネスモデルのため、プロパガンダのため、いつの時代も偶像崇拝的なお客さんが後を絶たないからです。
YouTubeなどで無料でお得な情報を得られたような気にさせて、実際にセミナーや講演会に来させようとする手口ばかり。
そもそも論として、誰が正しいとか、誰のがいいとか、そういう話ではない。詐欺に等しい行為に加担してしまうと、自分も詐欺師と同類になりかねない。
今仮に、幸せでないと感じていたとしても、安易に楽になれそうな道へ自分で行こうとしないことです。
一見楽そうに見えるその道は、結局遠回りになるう回路。
前世や来世とか、今の自分と無関係なことは後回しで構わない。
そんなことよりも、今の自分がときめいていることがあるなら、それを思い切りやればいいだけ。
修行だから苦しいとか、苦しんだ先に救済があるとか信じずとも、いまやりたいならすぐやればいい。
少なくとも死んだこともない、輪廻転生したこともない人たちが、あたかもそうであるかのように振舞うのは、語るに落ちるでしょう。
少なくとも、お釈迦様の教えなどは今から2500年前から存在しており、現代のテクノロジーによって答え合わせ的なフェーズに入った。
この世は、そもそも四苦八苦であり、無常であり、空であると、ほぼほぼ答えは語られている。ただ人間である以上、神や集合的無意識のようなものに憧れるのは当然。
何故なら人間は必ず欠けた状態で生まれ生きる定めだから。恐れや不安に右往左往しなくていいように、心落ち着けて生きていきたい。
人生の醍醐味とは、味わい深い人生。真実か事実かというよりも、変に意固地にならず、こだわらず、それを楽しめるのか。
はなからすべての話を否定していたのでは、そもそも何も生まれない空虚な毎日。それはよくわかる、しかしもう一度、この虚像と虚構の世界の成り立ちや自分の人生について改めて考えたい。