見出し画像

ノブレス・オブリージュ noblesse oblige

世界の価値観は、過去の誰かによって設定され、現在進行形で自分以外の誰かが決めるもの。

0からのスタートは無い。

頭脳、身体能力、容姿、才能。

そもそも体が不自由に生れつく。

ある日突然病気になる。

この世はとにかく不条理で、何もかも同じではいられない。

そのうえ、人類の歴史はかれこれ数千年以上に及び、その間に富を蓄え続けた人々、特権階級的な人たちが存在する世界。

誰もが生まれた時点で、必ず既存ルールの中からスタート。それはある意味、産湯の中の生暖かく優しい世界ともいえるが、完全な自由とはいえないだろう。

すでに築かれた檻の中で、どのように生きようが同じだと拗ね、檻の外から投げられる嗜好品によって一時的な快楽に身を委ねるか。あるいは、従属を拒み続け、檻の中にさらに小さな自分だけの檻を作り、獄中で自分ルールによって生きるのか。

いずれにせよ、お釈迦様の掌の上の孫悟空に変わりはない。とはいえこうも思う。仮に自分が創世記の人類であったとして、もうそこにはすでに世界が存在しているわけで。

結局のところ世界という箱庭の中で、必ず何かの法則の中で生きる定め。であるならば、この世界の誕生の瞬間、すでに真の自由は存在していないこととなる。そのように思いふけるうち、本当の自分らしさとは、いったい何なのか見失う。

やがてこう思うに至るのだ、どのような世界であろうとも、自分がありのままでいればいいだけだろうと。やはり最後には、自分の生きる意味はそこに行き着くのだ。

周りがどうであろうと、はじめからそんなことは無意味なのだ。ノブレス・オブリージュの真意、高貴なものがその責任を果たすことではない。

身分や能力などとは無関係に、ただ崇高な自分の心に従い、ありのまま自分本来を生きろという意味である。

本当の生きざまを見せてごらんよ

自分の中の幸福の基準、自分の軸

他人の決めたルールで勝ちたいなんて、それは傲慢すぎる。

仮に自分の決めたルールに誰かが割り込んできたら、きっと滑稽に見える、それと同じ。

他人の基準に卑屈になるなんてバカバカしい。

そもそも他人に認めてもらうことに、何の意味があるだろう?

どうせ人気や収入にあやかりたい輩が群れてやってくるだけ。

相手にするだけ時間の無駄。

自己満足のルールであっても、自分が楽しければいい。

自分だけのルールを設定し、自分のペースで楽しめばいい。

どうせ人生の終わりというゴールは決まっているのだから。

とどのつまり、自分がなりたい唯一のものなんて誰でも同じ。

自分が目指している高みは、本当の自分だけ。

そのための夢や目標であることを、誰もが忘れてる。

なら思い出せばいい。

ノブレス・オブリージュ! よい人生を!

いいなと思ったら応援しよう!

なすの
ここまで読んでくれたことに感謝。 これからも書くね。