誰もが無常を知らず、無明
妄想や空想でどれほど物思いに耽り、虚構の中でどれだけ満たされようとも自分が本当に満たされることはない。
満たされず不安だから動けない、でも皮肉なことに行動しているときは不思議と不安は忘れられる。であることから、可能な限り自分のペースで行動することが推奨される。
つまり、実際の行動によってのみ、自分が満たされるということ。自分の満足は、自分の表現が達成されている過程で満たされるものである。
妄想の果てには真の満足感や安心感はなく、あれやこれや頭でどれだけ考えたところで、自分の不安がなくなることはないのだ。
妄想をどれだけ追いかけても、その先には虚しさの荒野が広がるのみ。願望をどれだけ強く思い描いたとて、それらは所詮妄想にすぎない。成功したい、勝ちたいという願望は、妄想という名のエネルギーにすぎません。
はじめのきっかけの動機に執着していては、真の目的である人生体験を堪能できないばかりか、自分の思う結果を求め、同じ場所をぐるぐる回ることになる。
自分が求めているものと、周りが求めているものとが乖離しているほど寂しさを感じるのは、あまりにも心と体の対話距離が遠のいたから。この世界が本当は、実体のない妄想で出来てるってわかってて心虚しいからだ。
誰もが安心したいだけ、それなのに、どうしてお金持ちになりたいのかという本質は置き去りにされ、欲望だけが独り歩きする。そもそも人間が失敗を恐れるのは何故なのか。
大切な人生を浪費したような気になるから?
時間をかけて貯めたお金を無駄にしたくないから?
行動の失敗がそうした心理と結びつくのはどうして?
人の脳は、単語の後に否定する言葉を続けても、先に言われた単語を思い浮かべてしまう習性をもつ。見知らぬ電話で「オレだよ」と言われて、自分の息子を思い浮かべるように。
○○はしてはいけませんと言えば言うほど、人々の脳裏に深く焼き付けられてゆくということ。重大な事件や事故、大きなスポーツ大会での成績、そうした繰り返し報道される情報。
お人好しほど情報を疑わず鵜吞みにし、容易く洗脳される。
当然メディアや企業はこの仕組みを利用し情報を速やかかつ合理的に電波拡散し利益を享受する、これは資本主義社会において当たり前の行動。
合理的な考えや手法に則って、自らの信念を実際の行動指針にしているに過ぎない。世界の流れの中で合法的に活動して文句を言われるいわれはないからだ。
また一方で、今自分たちができることを精一杯表現している人々を、自らは行動することなく、あまつさえ学ぼうともせず安全な場所から愚痴ばかり言う輩。
「だって、周りがあれやこれやよくないことだというから」
と、そのように世界は対立と分断を余儀なくされている。
つまり恐れや不安は周りによって形作られた幻想であり、思い込みの妄想にすぎない。
愚者の無知の知
無知とは、自分が何も知らないバカな人間という意味ではない。何も知らないことをただ単に自覚している状態のことである。知ったかぶりや思い違いをするのが人間であるという自覚もこれに含まれる。
ある意味では、無知を自覚することから賢者への道は開かれる。人生の本質は恐れと不安によって得られる苦しみの数々の先に訪れる。
四苦八苦、苦しみの果てには何もない。
そのことに気づくための苦しみである。
であれば苦しみ自体から抜け出せばよいのだ。
苦しみから抜け出せば、その前の段階の恐れや不安も気にならなくなる。でもそう簡単にできれば世話はないと嘆くだろう。だからこそ、猶更それらの苦しみを俯瞰できるようになることが大切なのだ。
苦しみぬいている自分や周り、その状態を俯瞰してはじめて、苦しみとは幻のようなものであると実感できる。なんとも愚かしいことであるが、苦しみの中にいてはそのことには気づけないだけなのだ。
今はまだ信じられないでしょうが、苦しみのすべては実は自分とは無関係。自分がそうと決め受け入れたときにそれらは苦しみと成り果てる。
恐れや不安もこれに同じ。ですからどうか、苦しみではなく、幸せを意識しそちらを採用してください。
人は誰もが愚かさを生きる定め。
さりとてすべては自分の選択次第。
そのことに気づけたならもう愚者ではなく賢者なのです。