誰かの幸せは、別の誰かの不幸せ
愛する家族の安寧を願う。
誰もが当然のようにそう願う。
世界の平和を望む。
誰もが当たり前だと思っている。
その陰で、弱き者たちが人知れず不幸になっていると想像すらせずに。
物質的な豊かさこそが幸せの証だと信じて疑っていない人たちによって、現にこの世は歪になり続けている。
持つものはより豊かに、持たざる者は搾取され続ける。
すべての人々がこのことに気づいたうえで目に見える豊かさを手放さぬ限り、この負の連鎖は継続し歪みは大きくなり続ける。
自分が何かを望む限り、どこかの誰かの幸せは不幸せとなり果てるのだ。
仮に身近な人々にやさしく手を差し伸べる行為であっても、やがてそのしわ寄せはどこかに歪みを作る。
これが「メンドクサイ」という、自分の中から湧き上がる感覚の正体であると気づいている人は少ない。
自分が大きく動けば、その余波はともなって大きく早く世界へと広がってゆく。ことの良し悪しは無関係、この世に善悪などは存在しないからだ。
ただ純粋無垢な自分の行動に即した現象がやがてこの世に姿を見せるだけである。それでもなお自分が何かをしたくなるのは、ただたんに自分の生命活動の継続のための本能(ホメオスタシス)。
あるいは、周りの情報に踊らされ、とにかく何かをしなければとの焦り。
あるいは、もとより自分が信じている使命のようなものを達成したいと願うからか。いずれにせよ、すべては脳が作り出す幻想にすぎない。
自分はただ自分になればいい
何かをしたいと思うのは当然のこと。
でも必ずしも何かをしなければいけないわけではないのです。
何かをすることがいいことではないのです。
何もしないことが悪いことでもないのです。
してもいいし、しなくてもいい、それが本来の自由。
何もしなくてもありのままの自分であることに変わりはないのですから。
どうすればいいかなんてむつかしい。
でもあれはしたくない、これはちがうってことはわかる。誰だってそう。
だから難しく考えず自然に自分の思うままに生きればいい。
とはいえ、だからといって人間としての営みを捨て、山で静かに暮らすことが本来の営みなのかというと、もちろんそんなことはない。
日常の中で自分が心惹かれるとき、心躍るとき、それこそが行動のタイミング。つまりマルチに活動し、気忙しく生活する機運が高まっているが、そんなものはただの回り道。
己を知り、足るを知り、行動の際には必要なだけ行動し、それ以外は心穏やかに過ごすということだ。
押しては返す波のような人生に身を任せ、流れのままに委ね、自分らしくありのまま生きる大切さ。
結局はそれが一番自分本来のあり方への近道だということだ。
まずは自分の道を見つけることから、すべての話はそれからだろう。
どうせ全部やがて0に戻り、中道へ中今へと至る定め「一切皆空」なのですから。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。