子供に現実を気づかせるのは罪なのか?〜大人の言う自己実現とは何か?〜
1️⃣ オールマイティに行きなさい?
僕は自身のことを成功したとか思ってませんし、何かを成し遂げたとは思ってません。むしろ、子供時代より、
「なんか考え方変わってる」
と言われてきました。その言葉でどれだけ傷ついたかは忘れたものの、変わっていたおかげで救われた学生時期でもありました。
僕が現在教師として活動する中で、自分のように苦しむ生徒がいたらその背中をそっと支えたいと思っています。
では、僕は何に苦しんだか?
「オールマイティ」と言う言葉、これに苦しみました。
僕、小学校の時から算数が理解できなかったんです。
おそらく何かしらの機能にエラーがあるのかもしれません。
驚くほどにできませんでした。
今考えると、算数ができないと言う現象もさることながら、
「数学的な考え方・切り口で物事を見られない」
と言うことだったんでしょう。
だから、空間把握とかも異常に苦手なので、算数や数学での「展開図」とかはもう意味不明でした。
今でも忘れません。
小学校2年生の時、宿題で簡単な文章題が出ました。
「カエルが・・・」とか言うやつです。
僕、真剣に机に向かっていたんですが、何一つ答えなどでやしません。
意味がわかってませんから。
母親も、別に悪い意図があって僕を机に向かわせていたわけでもないと思います。
「どうしてわからないの?」とも言いませんでした。
結局、3時間かかりました。
そして次の日、答え合わせで自信満々で答えを発表すると、気持ちいいくらいに間違ってました。
この時、小学校2年生ながら思いました。
「僕はどうしてカエルさんのことで3時間も悩んでいるんだろう?」
ぼくは当時国語が好きでした。
テストはいつも100点。好きだからどんどん伸びました。
いつも嬉しそうに母親に見せました。父にも見せました。
僕が気になったのは、大人の使う「でも。」
「すごいやん。でも、算数は?」
2️⃣ 学年1位でも誉められなかった奇跡
小学校6年生の時に、塾の先生がたまたまちょっと英語を教えてくれたんです。
当時はまだ英語が中学生からだったので、「ちょっと先にかじっちゃう?」みたいな感覚でした。
何の抵抗もなかった僕は、appleとかそういった基本的な単語を見て、
「これ全部覚えれるかな?」
と言うなんともフワッとした同機で、10個くらいの単語の綴りを覚えてみました。
ある日、友達と公園で遊んでいました。
のちに東京大学にいく天才がいて、その子が嫌味なく英語のスペルをいくつか言ってました。その子が templeを言った時、スペリングが間違っていたので、無意識にその友達のスペリングを修正しました。
すると、
「ええ?お前すごいやん。なんでこんなん知ってるん?」
と言うまさかのお褒めの言葉。
「おっと?もしかしてこれ中学校の授業始まる前に全部覚えてたらヒーローになれるんでは?」
そこから遊び感覚で、英語を勉強し始め、気づいたら英語の魅力に毒されていました。
いつも英語だけはほぼ満点でした。
不思議なもので、得意だったから99点でも許せない自分がいました。
不思議ですね、人間って。
反して、数学は不得意を極めていました。
その頃から、先生には「馬鹿扱い」されるようになりました(笑)
一教科できないと馬鹿っぽく映るんですよね。分かります。
中学3年生の実力テスト。
英語87点で過去最低点。
でも、実はクラスで一番だったことが担当の先生により判明。
「クラスで一番やったで!!」
僕の声に帰ってきたのは、
「よかったなあ。でも・・・・」
そうかと、そうかと。
ならば学年一番はどうじゃい?
と最後の実力テスト、99点で見事に学年1位でした。先生が教えてくれました。
「俺、英語で学年1位やったで!!」
「おお、すごいやんけ!!CDでも買いに行くかあ!!でも・・・数学は?」
この後、初めて親父に殴りかかりました。
今でも鮮明に覚えてます。
何かがプツっと切れたんです。何かわかりません。
人のせいにするしかなかったんです。
後にも先にも、親に反抗したのはこの瞬間だけでした。
親父も反応して、お互い殴り合いになる所を、母親に止められました。
3️⃣ 数学は捨てていたわけではない。
結果というのは一番人が気にするところだから、仕方がない。
ただ、僕は少年ながらに、「苦手だから捨てていた」というわけでもなかった。
むしろ逆で、
「英語を足引っ張らないようにくらいにはしよう」
と思ってた。
英語が好きで、英語を使ってこれから生きていきたいとボヤっと思うなかで、その希望を足引っ張られるなら、それは嫌だと思った。
僕の中での会議ではこういう結論が出た。
「社会と英語と国語で満点近く。
理科と数学をせめて50点に。」
僕、学生時期から社会はほぼ100点近くだったんだが(センター試験でも90点以上だった)、何も「得意だったからできた」わけじゃない。
器用にノートを取ってまとめ直したり、効率の良い勉強方法を考えたりなど、
「数学的な思考」
が欠けている人間にできるわけもなかろう(笑)
だから、僕がやった勉強方法は、英語を暗誦するように、社会の教科書の暗唱(笑)
一語一句間違いなく言えたら、試験でもできるやろ?っていう途方もなく効率を無視した学習。大袈裟にいうけど、無茶苦茶しんどい(笑)
子供ながらにわかってた。
このやり方が通じるのは今のうちだけだろう。
だから社会が得意だと思ったことはない。
ただ、頭に入れるのは苦痛ではありませんというだけ。
恐ろしく時間かかるし、ノートもペンもあり得ないくらいに消費する。
ただね、不思議と、
大人って、「できることはそれで当たり前」みたいな風潮あるのよ。
なぜこの子はこれをできるようになったんだろう?とか見てくれないわけ。
あ、得意なんでしょ?じゃあできるよね、って。
4️⃣ 僕は諦めることの正当性を証明したかった。
僕にとって、数学とは
「自尊心略奪マシーン」だった。
英語のこと考えているときは翼が生えたような気になったし、将来の自分を如何にもこうにも描いていけた。
でも、数学の話になると、僕は傷ついた。
のちにわかったことだけど、なぜしんどかったのかっていうと、数学の話をするときは常に
「他との比べ」
だったから。
測りが自分の中にないときはしんどい。
英語だったら、敵は自分のみ。敵でもない。どこまで伸びたいかっていうより、どこまでも伸ばしたい。
でも、数学は違う。苦手で嫌いで、他と比べてどうかしか頭にない。
そりゃあ自尊心は下がる。
このままではいけないと思った、高校2年生の数学Aのテスト。
ちなみに、幸運にも(僕は必然だと思っているが大人はラッキーだねという)、僕の高校は単位制だったので、3年生になる時には完全に数学を消すことができた。(ちなみに2年生から数学なしにできたんだけど、「オールマイティ」の呪いはこんなところにも)
僕は母に、数学の先生に、父に言った。
「僕数学Aにだけ無茶無茶努力するから、どんな結果が出ても以後僕に数学のことを言うのをやめてくれ」
まあ、書けば格好いい物語。
本質は、前のテストで8点とっていたので、頑張るしかなかったというところ(笑)
ただ、その気持ちは本気だった。
英語の勉強ももちろんしたけど、英語や社会に意識がいきそうな時には、
「よし、数学A」と切り替えて、
放課後は友達に質問して、メールでも友達に質問して、先生にも質問して・・・
そして秘技、丸暗記の術!!
数式から何から全て暗記して、数字が変わったらそこに当て込むだけにしてた。
そして2週間の時を経て、
「人生でこれほど数学と向き合ったことなどねえ」
という満足感のもと、取った点数・・・。
テスト返却の時に、僕はそれまでになかったくらいの大声で、叫んだ。
「よっしゃーーーーーーー!!56点やああああああ」
この56点のテスト、いまだに家にあると思う。
僕にとってはただの56点じゃない。
「さよならを言うための56点」だった。
5️⃣ 勉強頑張るか頑張らんかは誰にもコントロールできない
正直、全ては結果論。
僕のこの話だって、所詮は結果論。
その中にいた時の苦しみも、その中にいたときにもっとできたことだって、全ては美化され語られる。
親が色々と僕にしてくれたことには感謝しかない。
親が僕を認めてくれて育ててくれたことがわかっていたからこそ、相談しないで自分の中で相殺していたこともあったと思う。
親を選べないように、生まれてくる環境を選べないように、
気づくか気づかないかって言うのは、ガチャだと思う。
僕はたまたま気づいた。それが正解かどうかなんか僕にしかわからない。
そりゃあ、いまだに数学的な思考は大の苦手。図面の読み込みなどできない。
職員会議で図面が出ると全く理解できない(笑)
ただ、僕はたまたま得意なことができて、不得意なことに自尊心を下げてまで得意なこともできなくなるような状況は避けたい、と密かに思うことができただけ。
諦めるために、努力することも大事だと気づいただけ。
ちなみに家族はみんな一通りなんでも器用にこなす。
唯一僕だけが
「できない」のオンパレードで生まれてきた。
でも、「このままでは生きていけないかもしれない」と危機感を募らせ、「お父さんのように判断を求められる仕事はできないだろう」と中学生で諦め、「自分の専門性を活かせるようなところなら僕は生きていける」
と自分なりに仮説を立てられたことは、正直ラッキーだったとしか言いようがない。
それが失敗していたら?
そんなもん知るか(笑)
中学生の僕に責任取れるか?高校生の僕に責任取れるか?
責任を持つとしたら、20代後半、30代後半?いや、いつまでもとれないかもしれない。
6️⃣ 諦めることの本質を伝えてあげたい
諦めることは放置することじゃない。
僕には中学生の甥っ子がいるんだけど、やっぱり数学苦手(笑)
僕からしたら、「お、きたか!」って感じ。なんなら、「俺の血がごめん」って。
でも、甥っ子は怒られる。僕の姉に。
「数学勉強したら?」って。
僕は茶化す。
「やめてもうたらええやん。」
そんなこと無責任に言わんといて、姉が言う。
僕の中では、「こいつが何かに気づかない限り、こいつが勉強は愚か、努力をすることなどない。と言うよりもまずこいつには努力という概念が理解できてない」
と思っている。
おじさんというのはいいポジションで、甥っ子はおじさん大好き。
甘いことしか言わないから。
甥っ子がいう。
「どうしたらいい?」
僕は真剣に答える。
「机の前で10分なんでもいいから作業してみ?勉強じゃなくってもええで。本読むとかなんでも。それが1ヶ月続くなら教えて?」
甥が言う。
「で、そしたらその次は?」
僕がいう。
「ううん。その次はその次。今はそれだけ。1ヶ月トライアル。もし続いたら教えて?」
甥っ子から1ヶ月続いたという報告はない。
10分も座れない息子に、姉は何を求めているんだろう?
彼が数学できることにどんな意味を見出しているんだろう?
なぜ全部できた方がいいんだろう?
彼が喜んでできることってないんだろうか?
努力の形って人それぞれ違うと思うんだけど。
自分との向き合い方を考えられる人に育ってほしい。
自分の心の中にあるものを、言葉にして吐き出せる人になったら嬉しい。
「努力しなさい」って言うんだけど、
「ちゃんとバランスよく」って言うんだけど、
本人の中のバランスは本人にしかわかんねえ。
自分の中のバランスがおかしくなりそうになるなら、その毒物(僕の場合は数学)を取り出したらいい。諦めたらいい。ただし諦めたら弊害はやってくる。負債は必ずやってくる。それを理解して、そんな負債を自分の幸福度で埋められるような、その負債ごと愛せるような人に育ちゃいい。
これ、言うと怒られんだわ(笑)
教師って、割と本気で、「頑張りなさい」って言うんだわ。
俺はテスト20点だけど、「先生、英語好きやわ」って言ってくれる生徒の嬉しそうな顔が大好きだった。
社会のテストが前回より5点上がって、「うわあ、ほらあ、努力したらできるんよ」と嬉しそうに息子に話す保護者の姿を本気で尊敬した。
自分が納得してたらそれでええやん。
ただし、現実は教えてやらんとあかんと思う。
なんでもかんでも諦めたらいいってものでもない。
諦めることの本質を理解できたら、人は頑張ると思う。
って・・・この考え方日本ではしんどいんだわ・・・(笑)
そこに戻って行こうとしていることに、まだ心の整理がつかない僕でした(笑)
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