見出し画像

英語の授業にどう文化を組み込もう?

1️⃣ Stereo Typeをも覚悟する

皆さん、中学校の英語の授業でNew Crownって教科書使ってました?
それかNew Horizon?

どちらにしても、教科書に登場するキャラクターの中に「日本人以外」の人種が登場しますよね?

アメリカの大学で、「文化を言語の授業にどう組み込むか」と言う話題になり、
「文化を伝えたこと、伝えなければいけない場面があったか?」と言う質問に、
教科書のキャラクターたちのことを思い出しました。

「インドから来た留学生」

という端的な情報に、教授が言います。

「どんな英語を話すのか」
「肌の色は?」
「洋服は?」

考えたこともなかった。
僕は、英語の授業は「何か共通の話題を通じての意味あるコミュニケーションの場」と捉えて日本で授業していたから、インドの文化を調べることはあっても、そもそもの「それ以前」の情報を整理することもなかった。

インドの人が話す英語へのステレオタイプ。
人種への理解についてのアプローチ。

「文化」と一言で言っても、「何をどう切り取って伝えるのか」、「生徒がその授業をもとにどのような興味を示すのか」、それを考えていないことには、

「インドってこんな国」

そんなイメージを植え付けることになる。

「そんな怖さを背負ってでも、文化に触れる価値はあるか?」

そんな質問が教授から来た。

皆さんはどう思いますか?


2️⃣ 「マーティン・ルーサーキング嫌い」と言うアメリカ人に出会って

I have a dream

このフレーズをどれくらい教えたかな。
あのフレーズをどれだけ練習したかな?

最近、American Literatureの授業で、「歴史の切り取り方」と言う話になりました。
歴史の教科書に載るのは、全体の断片。
どこまでも公平性を求めて書かれた教科書でも、その歴史の伝わり方は、受け取る方の判断に委ねられる。

黒人の人権運動の中で、どこをどう伝えるのか?

そもそも、今でも燻るこの人権の話題を、たった数時間で伝えることができるのか。

美文だからといって導入していいのか。

3️⃣ 文化は人の中にあるもの

僕は日本で授業をしていた時、「文化」と言われたらすぐに

「食べ物」「観光地」

を生徒に探させていた。

でも、アメリカでいろんな人種が混ざるクラスで、

「食べ物」も「観光地」も「文化」と言う言葉の中では

大した場所を取っちゃいない

ことに気づきました。

文化の中で、言語の中で、人は自分を作っていきます。
自分形成の中で、言語習得を通じて、「自分の中にあるものに触れることができた」と思うとき、どこの国から来た生徒も楽しそうに話してくれます。

「ああ、インドって国は俺をこういう風に作ってくれたんだ」
「ああ、メキシコ人の俺はこう言う考え方をしてたんだ」

この気づきと、その気づきが大事にされると言う感覚が、自国の文化、そして自分自身の中にあるものをもっと探したいと言う気持ちにさせるようです。


「自分ルーツを探さずに、歴史を理解することはできない。
歴史を理解せずに、自分を探すことなどできない。」

アメリカ文学史の教授が言っていた言葉です。

4️⃣ 教科書をより立体的に

「言語使用の場面を作る」

このミッションを前に、教科書は様々な視点に立ちながら作られていると思います。
教科書の後にあるメッセージを汲み取って、教科書をより立体的に使用できるような先生になっていく必要があるなと思います。

文化的な側面を伝えるとき、間違ったイメージを伝えてしまう危険性もある。
批評家によっちゃ、そもそも限られた時間の中で文化を教えられるわけないやろって人もいる。

ただ、そこで諦めたくないと思う。
言語の授業は、言語の機能を覚えるのも大事だけど、日本という国の中では得られない物事への切り口を見つけることができることが大きな要素だと思う。

文化ってなんだろう?

その自問自答を繰り返しながら、教科書を最大の味方にしながら、英語の授業をもっとおもろくしていきたいなあと、現場から離れて2年経った僕は思っております!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?