勉強することの再定義
エンジニア・社会人になってから資格取得することが増えた。
資格勉強を続ける中で最近思うことがある。
資格取得のための勉強になっていないか?
最近だとAWSのアソシエイト系資格の勉強をしていたが、勉強内容が業務生きた実感はあまりなく、せいぜいAWSのサービスに詳しくなったぐらいだ。もしかすると私は勉強の意味を履き違えているようだ。
まず、ITエンジニアとして働く上で教員免許・医師免許のような必須な資格はない。極論、無資格でもいい。しかし、ITエンジニアに関する資格は溢れすぎている。さらに技術記事では少ない時間で資格取得したレポートもあり無意識に焦っていく。そもそも、資格取得者とのコンテキストは同一ではない。もしかしたら、自社で資格奨励・資格補助があるかもしれないし身近で触れていたかもしれない。同一視すること自体が間違っている。
しかし、なぜ資格取得をしようと思ってしまうのか?
それは、スキルの証明ができないことへの焦りではないだろうか。資格は分かりやすく知識の証明になる。経歴書にも記載できるのでアドバンテージに繋がると思ってしまう。しかし、実態は前職でどんな価値を産み出したかが問われ資格取得はあまりアドバンテージにならない。同じスキルの人間がいた時の振り分け基準で利用できるぐらいのものだろう。資格取得数・日々の自己研鑽は言ってしまえばアピールではない。仕事では少ない時間で価値を出したほうがいいし、努力しないで結果が出たほうが価値がある。
資格取得をすると周りの人に言いたくなるだろう。
「私は仕事がある中で、この資格を取得しました!」
上記を見た・聞いたとしても大人であれば、資格取得に意味あるの?と思っても心の中にしまい褒めてくれるだろう。
そうなると資格取得者は下記のようなサイクルになる。
人間褒められると嬉しい。SNSで資格取得投稿をすればいいねがもらえて賞賛される。それにより資格取得・ひいては勉強した日々が肯定される。
褒められると嬉しいよね、苦労したんだもの。
そう、過去の私のように資格取得が目的になっていくのだ。
そもそも勉強をする意味とは
しかし、最近やっと言語化できたことがある。
そもそも勉強は、成功するための最中、壁にぶつかった時の選択肢を増やすためのものだ。
資格取得も種類と目的がある。
なんとなく不安だから・どうせなら資格を集めたいからと思って資格取得するのは上記の種類に一致しない。裏を返せば、資格取得への目的がないと勉強することが不安解消のための手段になるのだろう。
もし、自分の中で「成功」というものが具体的に言語化できているならば、勉強をしたことが成功につながったのか。最終的に成功したのかを意識して勉強することが必要となる。(※もしかしたらこの成功の言語化もどこかでするかも)
過去の自分に向けて
寝る間を惜しんで努力して資格取得したことだけでは成功ではない。
その勉強時間で他のこともできたし、家族との時間を増やせただろう。
時間を投資したなら、どの程度成功に近づいたか、成功したかを突き詰めていかないといけない。でなければ、結果的に自己満足になるだろう。
(資格取得が自己満足ならそれでよいが)
下記の言葉を胸に刻んで、日々勉強して可能性を広げていこう。
この文章を作成するきっかけ、かつ知見が広がったので引用させていただきます。
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