夢の飼い主の話 - BUMP OF CHICKENにおける夢の描きかたについて
GRAPEVINEが描く"光"特集につづいてBUMP OF CHICKENが描く"夢"特集です。といいつついっこまえの音楽文の最優秀賞受賞記念作文みたいな気持ちで書いているので、じぶんの"夢"の話もしてしまっています。ハイになっていたので……。
音楽文掲載日:2019/9/25
音楽の歌詞に取り上げられやすいテーマのひとつに“夢”がある。
これは登場する頻度のベスト3に入るかはわからないけれど、ベスト10には余裕で入りそうな気がする。
ためしにじぶんが曲を管理しているiTunesにて“夢”で検索をかけると56曲がヒットして、“dream”で検索をかけると99曲がヒットした。当然歌詞の中身までは検索できないわけなんだけど、でも曲名だけでもこの数というのは多いはず。きっと普遍性があって、共感が得られやすいテーマなんじゃないだろうか、なんて思う。
ただもちろん“夢”にはご存じの通りだいたいふたつの意味があって、それは云うまでもなく《願望や空想》と《眠っているあいだに見るもの》のふたつ。後者の歌も例えば有名どころだと井上陽水の『夢の中へ』とかがあるので無視できないのだけれど、でもそちらは置かせておいていただいて、ここでは《願望や空想》として音楽にのせて語られる“夢”の話をしてみたい。
“夢”が歌詞に用いられた場合、そのほとんどがそれをいいものとして捉えているように見える。輝かしいもの、美しいもの、抱くべきもの、そして掴みたいものとして。
そしてメッセージの方向として真っ先に思いつくのはやはり「信じれば夢は叶う」といった類のものだろうか。それはいたってポジティブで、たいそう眩しいなと思う。
将来の夢はなんですか?
こんなことを子どものころ訊かれたことがある。それはもちろん僕だけではなく、例えば小学校なんかで一括で訊かれたりする。
夢を見よう、夢を持とう、夢を描こう、夢を叶えよう。それらはとてもいいイメージを帯びているし、それゆえにどうしたって眩しいし、いささか眩しすぎるような気さえする。
だから僕が、ヒットチャートにて毎週誰かによって歌われてきた“夢”の眩しさと自分を見比べてすこし疲れていた十代の終わりのころに出会ったBUMP OF CHICKENというバンドの歌詞はちょっとした衝撃だった。
はじめて手にしたアルバムである『THE LIVING DEAD』には以下のような歌詞が綴られている。
“夢”の見過ぎで眼が悪くなる。“夢”のせいで眼が悪くなったと云っている。もちろんここでしているのは視力検査の話なんかじゃない。
“夢”を見て故郷を飛び出した若い絵描きは、貧しい生活に倒れ恋人への最後の手紙を黒猫に託して冷たくなってしまう。
“夢”を見る、または“夢”を見せることを上手に騙す、なんて云う。
引用したこれらの歌詞は"夢"の持つある側面を、まるでいいイメージのその反対側にあるものを描いているかのようだった。
《願望や空想》はもちろんおいそれとは叶わない。それは誰でも知っている。知っているけれど、目をそむけたくなる部分でもあって、なのでわざわざ叶わないことを歌にはあまりしない。
そんな、いやになるくらい知っている現実を、それゆえに歌にはあまりなってこなかったところを、BUMP OF CHICKENはむしろ進んで歌っているかのようだった。
だから、このバンドでボーカルとギターと作詞と作曲を担当している藤原基央というひとは、よくある普通のものごとやテーマを、普通ではない角度から見て表現してしまうひとなんだなと思ったことを覚えている。
バンドはそれからも、決して多くはないながら折に触れて“夢”について歌っていく。そしてその感触は甘いというよりは苦く、なんだろう、身につまされるものばかり。
叶えても金にならないから忘れたいという大切だった“夢”があって、ゴミと化してしまった“夢”があって、名前とはかけ離れたすがたにされ変わり果ててしまった“夢”があった。
これらの歌詞をはじめて聴いたときは驚いたし、同時にため息がこぼれた。いったい、このひとはなんて歌詞を書くんだろうか。
たしかに夢はゴミになる。それはよく知っている、ゴミにしてしまったことがあるからだ。
上記の引用した歌詞を眺めていると、当然というべきかどれも“夢”を過去のものにしてしまっているということに気がつく。かつて小学校で訊かれた“夢”は、その後だんだんと訊かれなくなっていく。ちょっと思い出してみようとするに、僕はもう十年以上もひとからそんな質問はされていない。
“夢”を過去のものにしてしまう経緯も藤原基央はちゃんと言葉にし、“夢”を諦める瞬間もきっちり描写する。
“夢”を綺麗な光にたとえて、それを諦めることを黄金の覚悟とたとえて、そこには痛みが伴うこということも漏らさずに綴る。
この文章の冒頭にて引用した“夢”を抱いた場面も、それを諦める場面も等しく丁寧に記していて、なんというか逃げ場がないのだけれど、それは残酷でありながらもそこには飾りも偽りもない真摯さがあるように感じてしまい、勘違いかもしれないけれどそういう描きかたがもしかしたらいちばん優しいんじゃないかと錯覚を起こしてしまいそうになる。“夢”を抱くことと諦めることを併せて語っていることに、どうにも優しさのようなものを見い出してしまう。
じぶんがもう“夢”を語る年齢でもないということは重々承知の上だけれど、ゴミにしてしまった“夢”の話をすこしだけしてみたい。
文章を読むことがとても好きで、だからじぶんでも文章を書いてみたかった。いつかじぶんが納得できるような文章を書いてみたいとずっと思っていた。
でも、そう思いつつもぜんぜん書けなかったし、そもそもあまり書こうともしてこなかった。文章を書くのはむずかしかったけど、書かない言い訳をみつけるのはひどく簡単だった。思っているだけでなにもせず、ただただ時間だけが過ぎていった。“夢”と呼べるものを抱いているだけでどこか満足してしまっていたのかもしれない。
そのため先述した『THE LIVING DEAD』の歌詞たちのような、BUMP OF CHICKENが描く夢の側面に共感のようなものを覚えていたことも、本当はおこがましくて後ろめたいだけだったりする。“夢”に挑むと云えるようなそんな土俵にもぜんぜん立てていなかったからだ。
なので実際のところ努力も苦労もしてこなかった僕には、こんなひりひりするような歌詞に頷いてしまえるような権利も資格も持ちあわせていなかった。何も失っていないが故に、彼らの歌詞によく出てくる「空っぽ」にすらうまくなれない。
だから、せめて挫折がしたいと思って、頑張ったけど駄目だったと思えるようになりたいと思って、去年の終わり頃にいまさらだけど長年想いだけは抱きつづけていた文章を書くということに向き合って、挫折できるまで書き続けてみることにしたのだった。
そうやって目指していたものに取り組みはじめてからは、またこのバンドの言葉から、何かを続けることに対しての勇気のようなものを勝手にもらうことになる。
そこにはいままでさんざん聴いてきた曲たちも含まれているんだけど、それまでとはちょっとちがった輝き方をしているように思えた。つくづく都合のいい受け取り方だとちょっと苦笑をしつつも、そう思えた。
文章を書いていることに対して、笑われてしまうことはあったし、怖くなってしまうこともあった。それでもせめて歪な足跡を途切れさせることはしないようにしようと今はつよく思っている。
まだ挫折できるほど書けてもいないし、じぶんの書くものに出会いたかったりもするので、もうちょっと納得のできるところまで進んでみたいなと思う。そうしたらもしかしたら副産物、なんて云ったらあれだけど、藤原基央の書く歌詞をもっともっとくっきりと受けとめられるようになるかもしれない。なんてことも思うし。